たまにはレースの写真でも眺めよう [ヨット]
新規感染者数が減少傾向ということで
緊急事態宣言が解除されました。
ほっとする反面、感染への不安が消えるわけではなく、
社会に迷惑を掛けることのないように
これまでと同じように注意を払っていきたいと思っています。
医療関係や社会生活を支えてくださっている皆様への
感謝の気持ちを持ちながら。
一年前は断捨離に燃えて、
軽トラで焼却場までよく通っていましたが、
一息ついた今は、パソコンのデータの断捨離です。
膨大な写真のデータには重なっているものがかなりあり、
例えば「2016 湯けむりヨットレース 贈呈用」
なんていうフォルダが、元データとは別にあるのです。
たぶん、その年のレースでCHIHAYAに乗ってくださった皆様に
データを送るために用意したものなのでしょう。
削除する前に眺め始めると
そのときの空気や緊張感が思い出されて
時間が経つのも忘れてしまいます。
この年は横浜の皆さんとオダケさん、そしてお師匠様が
CHIHAYAにご加勢くださいました。
こちらの準備不足でご迷惑をおかけしてしまいました(^_^;
……皆様は、このコロナの嵐の中でどうお過ごしでしょうか。
湯けむり、宇和島……と、これまで一緒にレースをしてくださった皆様は、
都会からいらっしゃった方が多かったので、
どうされているのかなと遠くを思いやっています。
娘夫婦も神戸にいるので、感染者の数にどきどきしています。
つれあい君はバイク通勤を余儀なくされ、
満員電車よりは……と思いつつも、それはそれで違う心配にもなるのでした。
実は、ニューヨークに住む親類の中には、悲しい思いをした方がいます。
都会にはたくさんの親類、友人、知人がいます。
このブログに来てくださる方も、都会に住んでいらっしゃる方が多いことでしょう。
どうか、さらに、お気をつけてお過ごしください。
写真を眺めながら、
「緊急時代宣言解除」の解放感が
新たな感染につながらないことを祈るばかりです。
……ヨットのセールがいくつもいくつも見られる海、「かたふり」の仲間たちとの集い。
そんな日が早く訪れますように。
緊急事態宣言が解除されました。
ほっとする反面、感染への不安が消えるわけではなく、
社会に迷惑を掛けることのないように
これまでと同じように注意を払っていきたいと思っています。
医療関係や社会生活を支えてくださっている皆様への
感謝の気持ちを持ちながら。
一年前は断捨離に燃えて、
軽トラで焼却場までよく通っていましたが、
一息ついた今は、パソコンのデータの断捨離です。
膨大な写真のデータには重なっているものがかなりあり、
例えば「2016 湯けむりヨットレース 贈呈用」
なんていうフォルダが、元データとは別にあるのです。
たぶん、その年のレースでCHIHAYAに乗ってくださった皆様に
データを送るために用意したものなのでしょう。
削除する前に眺め始めると
そのときの空気や緊張感が思い出されて
時間が経つのも忘れてしまいます。
この年は横浜の皆さんとオダケさん、そしてお師匠様が
CHIHAYAにご加勢くださいました。
こちらの準備不足でご迷惑をおかけしてしまいました(^_^;
……皆様は、このコロナの嵐の中でどうお過ごしでしょうか。
湯けむり、宇和島……と、これまで一緒にレースをしてくださった皆様は、
都会からいらっしゃった方が多かったので、
どうされているのかなと遠くを思いやっています。
娘夫婦も神戸にいるので、感染者の数にどきどきしています。
つれあい君はバイク通勤を余儀なくされ、
満員電車よりは……と思いつつも、それはそれで違う心配にもなるのでした。
実は、ニューヨークに住む親類の中には、悲しい思いをした方がいます。
都会にはたくさんの親類、友人、知人がいます。
このブログに来てくださる方も、都会に住んでいらっしゃる方が多いことでしょう。
どうか、さらに、お気をつけてお過ごしください。
写真を眺めながら、
「緊急時代宣言解除」の解放感が
新たな感染につながらないことを祈るばかりです。
……ヨットのセールがいくつもいくつも見られる海、「かたふり」の仲間たちとの集い。
そんな日が早く訪れますように。
遭遇! 竹田市「岡城跡」⑧ [お城(跡)歩き]
5月22日の岡城ダイエットは、
大手門から本丸、下原門を抜けて東に下り、
大友時代の城下を通って、城の北側に回り、
稲葉川沿いの道を歩いて、近戸門口からもとに戻るという7.5キロのコース。
本丸から下原門までに出会ったヒトはわずか一名だったが……。
下原門からちょっと下ったところで、夫が下の斜面の下草を指さして、
「ちょっと、ちょっと、何かいるよ。」
「え~?どこ~?」
「ほら、ほら。」
「!?」
タヌキ?
私たちは坂を下っている。
ヤツは草の中を同じ方向に向かっている。
このまま行けば遭遇?
ほら!出てきた!
気がついて、逃げるかと思ったら……。
こっち!?
ヒトがいるんだよ、気がつかないの?
まだ気づいてない。まだ……。
遭遇。
はっ
見つめ合った瞬間。
やばっ
すたこらさっさ~
気づくの遅!
先日のイタチに続き、アナグマに遭遇。
でも、岡城跡の動物たちは警戒心に欠けてるなあ。
次は何に出会えるか楽しみ。
蛇とかはいや。
大手門から本丸、下原門を抜けて東に下り、
大友時代の城下を通って、城の北側に回り、
稲葉川沿いの道を歩いて、近戸門口からもとに戻るという7.5キロのコース。
大手門では草取りをしてくださっていた。
本丸のシロツメクサはきれいになくなっていた。
本丸から下原門までに出会ったヒトはわずか一名だったが……。
下原門からちょっと下ったところで、夫が下の斜面の下草を指さして、
「ちょっと、ちょっと、何かいるよ。」
「え~?どこ~?」
「ほら、ほら。」
「!?」
タヌキ?
私たちは坂を下っている。
ヤツは草の中を同じ方向に向かっている。
このまま行けば遭遇?
ほら!出てきた!
気がついて、逃げるかと思ったら……。
こっち!?
ヒトがいるんだよ、気がつかないの?
まだ気づいてない。まだ……。
遭遇。
はっ
見つめ合った瞬間。
やばっ
すたこらさっさ~
気づくの遅!
先日のイタチに続き、アナグマに遭遇。
でも、岡城跡の動物たちは警戒心に欠けてるなあ。
次は何に出会えるか楽しみ。
蛇とかはいや。
お城跡は野の草花の賑やかさ 竹田市「岡城跡」⑦ [お城(跡)歩き]
百花繚乱の季節。
バラや牡丹、シャクヤクに杜若と美しい季節だけれど、
城跡に咲く野の草花もすてき。
5月のはじめ、
近戸門口がヒメジョオンやハルジオンの花でいっぱい。
(ホンネは蛇が怖かった……。)
連休直後の本丸はシロツメクサの花盛り。
たくさんの人に見せてあげたかったな~。
(閉所はしていなかったけれど、すれ違ったのは二人だけ。)
小さな花が無彩色の石垣や
緑の風景に彩りを添えている。
嬉しい時期だよね~!
赤いのを見つけると食べながら歩いている。
でも、すでにだれかが採ってる。負けた。
あ!もしかして、食べたのキミ?
かわいかったんだけど、残念、ボケ。
15日に行ったら、近戸門口のあの雑草に覆われた道が
きれいに草刈りされていた。
ありがたいです~。歩きやすかったあ!
いつ岡城跡に行っても草刈り機の音が響いている今日この頃。
整備をしてくださる方々に敬意を表して、
この日、「年間パス」を購入しちゃった。
岡城ダイエット、さらに続く予定。
バラや牡丹、シャクヤクに杜若と美しい季節だけれど、
城跡に咲く野の草花もすてき。
5月のはじめ、
近戸門口がヒメジョオンやハルジオンの花でいっぱい。
(ホンネは蛇が怖かった……。)
連休直後の本丸はシロツメクサの花盛り。
たくさんの人に見せてあげたかったな~。
(閉所はしていなかったけれど、すれ違ったのは二人だけ。)
小さな花が無彩色の石垣や
緑の風景に彩りを添えている。
嬉しい時期だよね~!
赤いのを見つけると食べながら歩いている。
でも、すでにだれかが採ってる。負けた。
あ!もしかして、食べたのキミ?
かわいかったんだけど、残念、ボケ。
15日に行ったら、近戸門口のあの雑草に覆われた道が
きれいに草刈りされていた。
ありがたいです~。歩きやすかったあ!
いつ岡城跡に行っても草刈り機の音が響いている今日この頃。
整備をしてくださる方々に敬意を表して、
この日、「年間パス」を購入しちゃった。
岡城ダイエット、さらに続く予定。
「一軒家」集合地帯!? [ふるさと]
日曜日の夜、久々に「ポツンと……」を見た。
地元豊後大野市のことだと娘が教えてくれたので。
前の週もこちらのことだったのに見逃していた。
深い山奥に一人で住む元気なおばちゃん達の姿にほっこりした。
方言の字幕解説に笑いながら、温かく懐かしい気持ちになった。
余所の地方の方は理解できただろうか。
私たちはもちろん字幕無しでも理解できたけれど。
番組では、一軒家が次々に見つかったことになっていた。
娘のつれあい君がおもしろいことを言っていたらしい。
「ポツンと一軒家集合地帯」
矛盾しているようだが、奥豊後を言い表すにはなかなかうがった表現だ。
豊後大野市も竹田市も深い谷間、尾根筋のあちこちに
同じような人家がある。
夫の知り合いはこの番組から取材を申し込まれたが断った……なんてこともあったんだって!
実は、テレビに映された地域は岡城の殿様が統べる「岡藩」だった。
※一軒家の地域はお隣の臼杵藩だと思っていたが、
ちょっと文献を調べたら岡藩領だった。
岡藩は、今の竹田市を中心に大野郡・直入郡・大分郡や佐伯市の一部からなる藩だった。
豊後の国は小藩が多く、岡藩七万石はその中でも一番の石高だ。
とは言え、領地の多くは山で、深い深い谷が刻まれている。
平野はあまりなくて、
「つる」と呼ばれる山間の平地や「はる」と呼ばれる丘陵の畑作地帯が
主な収穫地だったわけで、あまり豊かさのイメージがない。
一揆も起こってたみたいだ。
(様々な仕事や鉱山もあったと思うので、一概に貧乏とは言えないけれど。)
話は変わるが、こちらは今でも、
「あそこは臼杵藩だから。」とか、「岡藩と臼杵藩はいろいろ違う。」
なあんて年寄りはもっともらしく言う。
どうもお隣の臼杵藩と張り合っているようなところがある。
豊後の国は小藩が多いので、その名残なんだろうか。
2005年の町村合併時、大野郡八か町村の一つだった野津町は
豊後大野市を選ばず、お隣の臼杵市と合併することが決まった。
野津町は、「とんちの吉四六(きっちょむ)さん」で有名な町で、
もともとは稲葉氏の臼杵藩に属していたから、古い時代の括りにもどったわけだ。
野津町が大野郡を離れ、臼杵市と一緒になると決まったときの
舅の言葉が忘れられない。
「 そうか、吉四六さんも臼杵の城下に通いよったけんのう。」
うちのお母ちゃんは、
「私たちは岡藩で一つの市になればいいのよ!」
みたいなことを言っていた。
竹田の城下が生活の一部だったお母ちゃんらしい言葉だ。
私たちの世代になるとあまり旧藩時代のくくりは意識していないが、
「岡藩」というものには、やはり「ふるさと」を感じているし、
私たちを育てた歴史、文化は「岡藩」が基盤のような気がする。
今さらこの土地を離れるなんて考えられない。
海に行くのは一苦労なんだけど……。
ポツンと一軒家は岡藩のあちこちに
もっともっと存在しているはずだ。
「一軒家集合地帯」という婿殿のことばにユーモアを感じながら、
今度娘夫婦が帰ってきたら、
姫路城がふるさとの城という婿殿に、
じっくり「岡藩」を案内しようと思っている。
地元豊後大野市のことだと娘が教えてくれたので。
前の週もこちらのことだったのに見逃していた。
深い山奥に一人で住む元気なおばちゃん達の姿にほっこりした。
方言の字幕解説に笑いながら、温かく懐かしい気持ちになった。
余所の地方の方は理解できただろうか。
私たちはもちろん字幕無しでも理解できたけれど。
番組では、一軒家が次々に見つかったことになっていた。
※御嶽から眺めたおばあちゃん達の一軒家の方向
娘のつれあい君がおもしろいことを言っていたらしい。
「ポツンと一軒家集合地帯」
矛盾しているようだが、奥豊後を言い表すにはなかなかうがった表現だ。
豊後大野市も竹田市も深い谷間、尾根筋のあちこちに
同じような人家がある。
夫の知り合いはこの番組から取材を申し込まれたが断った……なんてこともあったんだって!
実は、テレビに映された地域は岡城の殿様が統べる「岡藩」だった。
※一軒家の地域はお隣の臼杵藩だと思っていたが、
ちょっと文献を調べたら岡藩領だった。
岡藩は、今の竹田市を中心に大野郡・直入郡・大分郡や佐伯市の一部からなる藩だった。
豊後の国は小藩が多く、岡藩七万石はその中でも一番の石高だ。
とは言え、領地の多くは山で、深い深い谷が刻まれている。
平野はあまりなくて、
「つる」と呼ばれる山間の平地や「はる」と呼ばれる丘陵の畑作地帯が
主な収穫地だったわけで、あまり豊かさのイメージがない。
一揆も起こってたみたいだ。
(様々な仕事や鉱山もあったと思うので、一概に貧乏とは言えないけれど。)
話は変わるが、こちらは今でも、
「あそこは臼杵藩だから。」とか、「岡藩と臼杵藩はいろいろ違う。」
なあんて年寄りはもっともらしく言う。
どうもお隣の臼杵藩と張り合っているようなところがある。
豊後の国は小藩が多いので、その名残なんだろうか。
2005年の町村合併時、大野郡八か町村の一つだった野津町は
豊後大野市を選ばず、お隣の臼杵市と合併することが決まった。
野津町は、「とんちの吉四六(きっちょむ)さん」で有名な町で、
もともとは稲葉氏の臼杵藩に属していたから、古い時代の括りにもどったわけだ。
野津町が大野郡を離れ、臼杵市と一緒になると決まったときの
舅の言葉が忘れられない。
「 そうか、吉四六さんも臼杵の城下に通いよったけんのう。」
うちのお母ちゃんは、
「私たちは岡藩で一つの市になればいいのよ!」
みたいなことを言っていた。
竹田の城下が生活の一部だったお母ちゃんらしい言葉だ。
私たちの世代になるとあまり旧藩時代のくくりは意識していないが、
「岡藩」というものには、やはり「ふるさと」を感じているし、
私たちを育てた歴史、文化は「岡藩」が基盤のような気がする。
今さらこの土地を離れるなんて考えられない。
海に行くのは一苦労なんだけど……。
ポツンと一軒家は岡藩のあちこちに
もっともっと存在しているはずだ。
「一軒家集合地帯」という婿殿のことばにユーモアを感じながら、
今度娘夫婦が帰ってきたら、
姫路城がふるさとの城という婿殿に、
じっくり「岡藩」を案内しようと思っている。
※岡城から北方向
久々に海の写真でも眺めよう [ヨット]
ここ、どこだ?
おお、ここにもマチュピチュ。
2015年の宇和島のレースの前日。
遊子水荷浦の段々畑を海上から眺めました。
何で急に思い出したかっていうと……。
今朝 洗濯物を干していたら、急に好い香りに包まれて
「ああ、もうカボスや柚子の花が咲いてるんだな。」と思ったら、
蜜柑の花の香りがする宇和海を思い出したんです。
海の上で蜜柑の花の香りがしたことは2015年の記事に書いていました。
https://chihaya2011.blog.ss-blog.jp/archive/201505-1
写真のデータを見直してたら懐かしかったです。
なんかんさんのことも……。
この年は、ヤマシタさんが別府から一緒に行ってくださって、
レースもご加勢いただいて本当に楽しかったです。
そして、この年は殊の外 蜜柑の花の香りが強かったと記憶しています。
柑橘類の花の香る頃になると、
あの年の宇和島や八幡浜の蜜柑の花の香りとともに、
レースやその後の今治へのクルージングなどが懐かしく思い出されるのです。
今年もうちの柚子が咲き始めました。
「うちの柚子は、実が大きいばかりで美味しくないから伐る」って
お母ちゃんが言うのを阻止してきたのは、
宇和島のレースを思うよすがとして残しておきたかったから。
確かに味はおおざっぱなんだけど、
この時期の花の香りは捨てがたいんです。
何としても守り抜くつもりで、去年は青柚子のお酒、ジャム、ピールと
いろいろ使いましたよ。
今年は夫が剪定して少しさっぱりした姿になっています。
花も少ないのですが、実がなったらしっかり食べますよ。
蜜柑の花が咲いている思い出の海へ、
いや、蜜柑の花の時期じゃなくてもいいから、
ヨットで行きたいな!!!!!
「殿様、どこを通ったの?」岡藩参勤交代の道③ [歴史探訪]
岡藩の殿様が参勤交代の時、
竹田のどこから出ていったのか……を探りながら
竹田の町をほっつき歩いている。
人の多そうな中心部ではなく、岡城周辺の人気のないところ。
「今日会ったのは……。」と、すれ違った人を覚えているくらいだから、
ホントに人に会うことが少ない。
あるとき、マスクをしたおばちゃんが家の外にいて、こっちをじっと見たので、
嫌がられてるのかなと思ったら、
「散歩にはいい日だね!」と声を掛けてくれて、ちょっと安心した。
さて、4月の終わりから5月初めのウォーキングは
殿様が「峠越えルート」で参勤交代に行くときの
竹田からの「出口」を探ってきた。これは岡藩の殿様の初期のルートだ。
資料では、「七里口」「赤坂」の二カ所が候補として挙げられている。
※『大分県文化財調査報告書 「歴史の道」調査報告書 岡城路 大分県教育委員会』
昭和54年から56年の調査報告
4月27日は、「七里口」方面を探索。
事前に、夫が資料を片手に、「ストリートビュー」で旧道の目星をつける。
……ストリートビューは役に立つなあ。
で、写真は七里口とおぼしき道の入り口。
岡城の北、古刹が並ぶ稲葉川沿いの道から山手に入り込む。
狭い谷間だが、古い石垣が閑静な雰囲気を作り出している。
緑色の空間にウグイスの声が響き渡る。
へえ!こんな静かな、感じの良い場所があったんだ!!
こんなところに住んでる人って羨ましい。
この先は小さなトンネルがあって、竹田市役所方面につながっている。
……ストリートビュー撮影車は、こんな細い道まで入ってる。
(地図上では竹田森林事務所近くの細い道)
ゆるやかな坂道を登って、この先はトンネルがあるなんて話していたら、
急に左側の山の斜面を夫が指さした。(ストリートビューでも何となくわかる。)
と、もうそこをどんどん登っていく。こらこら。
「私有地じゃないの?」
だれかのお宅の裏山って感じの場所なのに。
それでなくても外からの人間は警戒されてるこの時期に、
そんなところを登っていって、叱られないかな?とは思うのだけれど、
夫は遠慮無しにずいずい登っていくので、
しかたなくついていく。
夫が坂道の途中で待っている。
思わず「あらまあ、これ、旧道だわ。」
遠慮してたら見つけられなかった。
この辺りでよく見られる旧道の風景!
阿蘇火砕流堆積物の岩盤をうがって、その下に側溝を掘ってある道!
これは城北町の旧道。
これは岡城跡
この、狭いところを這い上るような場所に昔の道!
丘を登って下ると七里と呼ばれる地域に出た。
左の道を下りてきた。
明るく開けた場所だ。
稲葉川の氾濫を避けて作られた市役所や法務局、小学校などがある丘陵地帯で、
新しくてオシャレな家が並ぶ。
ここらは竹田の新しい中心地になっている。
ここから北の峠越えルート(県道47号方面)につながっていると想像できる。
しかし、確かに旧道ではあるが、本当に殿様の行列がここを通ったのかなあ?
地元の人にでも会えたら聞けるんだけど。……聞けそうな人には全く出会わないのだった。
5月4日には、資料にある「赤坂」の峠道を歩いた。
JR竹田駅の下手から、赤坂隧道を通らずに国道57号線に抜ける峠道だ。
一度、車で通り抜けた。
夫は昔、仕事でこの道を通ったことがあるが、私は初めてで、
あまりに狭い斜面の坂道に夫が車を入れるので肝を冷やした。
Googleの撮影車も、ちゃんと通っているんだけど。
ゆっくり歩いてみると、この道も旧道の様を呈していた。
谷間から岡城方向を眺める。
細い坂道ではあるが、人家も多く、難なく峠越えルートの途上に出た。
私たちは、57号線を横切り、県道47号線を少し北に向かって歩き、
資料にのこる参勤交代道路の地名を確認した。
うん、岡城からならこの出口から行くのがいいんじゃないの?
後日、天明7年(1787年)の古い竹田の地図が手に入った。
岡城を中心に、実に様々な道が描かれている。
重要な道は太線で書かれ、そうでもなさそうな道は細い線で書かれている。
赤坂峠を越える道は太かった。
七里の峠越えはあまり太くない。
殿様が岡城の大手門を出て、どこをどう歩いたかはわからないが、
赤坂の峠を越えて北方向に向かい、山を越え、肥後街道と合流する
というルートがいちばん動きやすいように感じた。
……撮影車が通れてるってわけじゃないけど。
いずれ、竹田市歴史文化館・由学館が開館したら研究成果を確認しにいくつもり。
実際に旧道をたどって歩いてみると、
今の車社会の概念を全く捨てないとダメだってことがわかった。
まず、トンネルってものもないしね。
でも、人が通れそうな道がどこにでもつなげられていて、
昔の人は歩いて、歩いて、歩いて、道を切り拓いていた。
その道の多くは今は藪に埋もれている。
私たちが見た、ちょっとした痕跡もほどなく、消えていくんだろうな。
ダイエットと頭の体操を兼ねてのウォーキングは
ネタと写真ばかり貯まって、記事にするのが追いつかない。
……でも、まとまったら記事にしますので、よろしかったらおつきあいください。
竹田のどこから出ていったのか……を探りながら
竹田の町をほっつき歩いている。
人の多そうな中心部ではなく、岡城周辺の人気のないところ。
「今日会ったのは……。」と、すれ違った人を覚えているくらいだから、
ホントに人に会うことが少ない。
あるとき、マスクをしたおばちゃんが家の外にいて、こっちをじっと見たので、
嫌がられてるのかなと思ったら、
「散歩にはいい日だね!」と声を掛けてくれて、ちょっと安心した。
さて、4月の終わりから5月初めのウォーキングは
殿様が「峠越えルート」で参勤交代に行くときの
竹田からの「出口」を探ってきた。これは岡藩の殿様の初期のルートだ。
資料では、「七里口」「赤坂」の二カ所が候補として挙げられている。
※『大分県文化財調査報告書 「歴史の道」調査報告書 岡城路 大分県教育委員会』
昭和54年から56年の調査報告
4月27日は、「七里口」方面を探索。
事前に、夫が資料を片手に、「ストリートビュー」で旧道の目星をつける。
……ストリートビューは役に立つなあ。
で、写真は七里口とおぼしき道の入り口。
岡城の北、古刹が並ぶ稲葉川沿いの道から山手に入り込む。
狭い谷間だが、古い石垣が閑静な雰囲気を作り出している。
緑色の空間にウグイスの声が響き渡る。
へえ!こんな静かな、感じの良い場所があったんだ!!
こんなところに住んでる人って羨ましい。
この先は小さなトンネルがあって、竹田市役所方面につながっている。
……ストリートビュー撮影車は、こんな細い道まで入ってる。
(地図上では竹田森林事務所近くの細い道)
ゆるやかな坂道を登って、この先はトンネルがあるなんて話していたら、
急に左側の山の斜面を夫が指さした。(ストリートビューでも何となくわかる。)
と、もうそこをどんどん登っていく。こらこら。
「私有地じゃないの?」
だれかのお宅の裏山って感じの場所なのに。
それでなくても外からの人間は警戒されてるこの時期に、
そんなところを登っていって、叱られないかな?とは思うのだけれど、
夫は遠慮無しにずいずい登っていくので、
しかたなくついていく。
夫が坂道の途中で待っている。
思わず「あらまあ、これ、旧道だわ。」
遠慮してたら見つけられなかった。
この辺りでよく見られる旧道の風景!
阿蘇火砕流堆積物の岩盤をうがって、その下に側溝を掘ってある道!
これは城北町の旧道。
これは岡城跡
この、狭いところを這い上るような場所に昔の道!
丘を登って下ると七里と呼ばれる地域に出た。
左の道を下りてきた。
明るく開けた場所だ。
稲葉川の氾濫を避けて作られた市役所や法務局、小学校などがある丘陵地帯で、
新しくてオシャレな家が並ぶ。
ここらは竹田の新しい中心地になっている。
ここから北の峠越えルート(県道47号方面)につながっていると想像できる。
しかし、確かに旧道ではあるが、本当に殿様の行列がここを通ったのかなあ?
地元の人にでも会えたら聞けるんだけど。……聞けそうな人には全く出会わないのだった。
5月4日には、資料にある「赤坂」の峠道を歩いた。
JR竹田駅の下手から、赤坂隧道を通らずに国道57号線に抜ける峠道だ。
一度、車で通り抜けた。
夫は昔、仕事でこの道を通ったことがあるが、私は初めてで、
あまりに狭い斜面の坂道に夫が車を入れるので肝を冷やした。
Googleの撮影車も、ちゃんと通っているんだけど。
ゆっくり歩いてみると、この道も旧道の様を呈していた。
谷間から岡城方向を眺める。
細い坂道ではあるが、人家も多く、難なく峠越えルートの途上に出た。
私たちは、57号線を横切り、県道47号線を少し北に向かって歩き、
資料にのこる参勤交代道路の地名を確認した。
うん、岡城からならこの出口から行くのがいいんじゃないの?
後日、天明7年(1787年)の古い竹田の地図が手に入った。
岡城を中心に、実に様々な道が描かれている。
重要な道は太線で書かれ、そうでもなさそうな道は細い線で書かれている。
赤坂峠を越える道は太かった。
七里の峠越えはあまり太くない。
殿様が岡城の大手門を出て、どこをどう歩いたかはわからないが、
赤坂の峠を越えて北方向に向かい、山を越え、肥後街道と合流する
というルートがいちばん動きやすいように感じた。
……撮影車が通れてるってわけじゃないけど。
いずれ、竹田市歴史文化館・由学館が開館したら研究成果を確認しにいくつもり。
実際に旧道をたどって歩いてみると、
今の車社会の概念を全く捨てないとダメだってことがわかった。
まず、トンネルってものもないしね。
でも、人が通れそうな道がどこにでもつなげられていて、
昔の人は歩いて、歩いて、歩いて、道を切り拓いていた。
その道の多くは今は藪に埋もれている。
私たちが見た、ちょっとした痕跡もほどなく、消えていくんだろうな。
ダイエットと頭の体操を兼ねてのウォーキングは
ネタと写真ばかり貯まって、記事にするのが追いつかない。
……でも、まとまったら記事にしますので、よろしかったらおつきあいください。