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イヤ~な揺れでした。4月17日 [忘れてはいけないこと]

熊本地震の記憶も遠くないのに、
またもや……と焦りました。


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嫌な揺れでしたね。
こちらは震度4ということでしたが、もっと揺れた気がしました。
眠りに落ちたところで、警報音と不気味な揺れに起こされました。
布団の上で「止まれ~止まれ~」と祈っていました。


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すぐに安否確認のLINEが娘のつれあい君から届きました。
揺れがおさまって急いでテレビをつけて、
震源地を確認して、またまた慌てました。愛媛!!
大きな被害が出ていなければいいねと、夫と話しました。
しばらく地震情報を見ていました。



我が家では特に被害はなかったのですが、
熊本地震のことを思い出すと眠れませんでした。


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今年は、能登の震災から始まりました。
3.11、4.16と震災関連の報道が続き、
いろいろ思い起こされる中での強い揺れに、
改めて地震国日本で生きることを考えさせられます。


もしものときに……と準備してあるものを思い描いていましたが、
役に立つところに置いてあるのか再点検しなくては。


今は、また強い地震が来ないことを祈るばかりです。


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3月11日 [忘れてはいけないこと]

もう12年も経つんですね。


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トルコ・シリアの地震ではおよそ5万3千人もの命が失われたと聞きました。
南海トラフの地震発生の可能性も高まっていると
さまざまに呼びかけられています。



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「いつか」を「いつも」に。動け大分。

……これは大分県の防災啓発動画で聞いた言葉です。

自分は何か動いているかな
と今日は黙とうを捧げながら考えていました。








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復旧した豊肥線から復旧した阿蘇大橋を見た [忘れてはいけないこと]

昨年の秋、10月5日の写真です。


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2020年10月3日に国道57号線が復旧、
同時に「北側復旧ルート」が開通しました。



うれしくて、その二日後に復旧国道57号線を熊本方面に走り、
新しい北側復旧道路を通って大分方面に帰ってくるドライブをしました。


阿蘇大橋はまだ工事中。


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北側復旧道路は長いトンネルを掘って作られました。



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今年になって3月9日。
熊本に一泊で行く用事がありました。
「特急阿蘇」を使って熊本に行くのは、
豊肥線が復旧した昨夏(8月8日)以来初めてです。



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コロナの影響は大きく、車内はガラガラ。
わずか2両で、車掌さんも居ませんでした。


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車内にもプラットホームにも人がいない……。



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本震(2016年4月16日)とその後の豪雨で斜面崩壊した場所からやや熊本寄りに
3月7日に開通したばかりの阿蘇大橋が見えました。



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有名な立野の「スイッチバック」です。
斜面の高いところで列車は停まり、運転手さんが後部の運転席に移動します。


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進行方向と逆に列車は斜面を下り、立野駅に滑り込みました。
運転手さんは、ホームを歩いて、もとの運転席へ。



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立野からは車掌さんも乗り込んで、列車は再び熊本方向に走り始めます。
スイッチバック、本当に久しぶり。感動。




3月9日の熊本城。



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3月10日の熊本城。
「復興のシンボル」とされる天守閣が復旧工事を終え、
4月26日から内部が一般公開されるそうです。



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熊本から大分に帰ります。特急阿蘇は、この日もガラガラ。



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立野駅です。
運転手さんが移動中。


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列車は斜面をバックで登り、
登ったところから大分方面に再び走り始めます。


では、5分ちょっとですが、スイッチバック後の列車の旅をご一緒に。

スイッチバックの説明が車内放送で流れます。
3分を過ぎたところで、普及したばかりの阿蘇大橋が見えてきます。
5年前の大災害の痕跡も。






2016年の大地震、そして豪雨災害、コロナ禍と
この5年、厳しい状況が続いています。


豊肥線の復旧、国道57号の復旧・開通、阿蘇大橋の復旧、
そして、熊本城天守閣の復旧……5年かかってようやくここまで来たのですね。



でも、完全復活にはまだまだ時間がかかるのです。



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「10年」という日の前夜に聴いた「群青」 [忘れてはいけないこと]

悲しみの中で、歌うこともできなかった毎日の中で
それでも
こんなにうつくしい歌を生み出してくれてありがとう。


この歌が「大切な全て」に届くことを願っています。



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群青


     作詞 福島県南相馬市立小高中学校 平成24年度卒業生
     作曲 小田美樹(福島県南相馬市立小高中学校 教諭)




     




ああ あの街で生まれて君と出会い
たくさんの想い抱いて 一緒に時を過ごしたね

今旅立つ日 見える景色は違っても
遠い場所で 君も同じ空
きっと見上げてるはず

「またね」と手を振るけど
明日も会えるのかな
遠ざかる 君の笑顔今でも忘れない

あの日見た夕日 あの日見た花火
いつでも君がいたね
当たり前が幸せと知った

自転車をこいで 君と行った海
鮮やかな記憶が
目を閉じれば 群青に染まる

あれから二年の日が 僕らの中を過ぎて
三月の風に吹かれ 君を今でも想う

響けこの歌声
響け遠くまでも あの空の彼方へも
大切な全てに届け

涙のあとにも 見上げた夜空に
希望が光ってるよ

僕らを待つ群青の街で
ああー

きっとまた会おう
あの街で会おう 僕らの約束は
消えはしない 群青の絆

また 会おう
群青の街で



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熊本地震から4年。 [忘れてはいけないこと]

2016年の今頃、
私は、熊本地震のせいで落ち着かない毎日を送っていたのだけれど、
5月には宇和島のヨットレースにも行けたし、
夏の訪れとともに元気になっていった。



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しかし、被災地の傷は深く、
4年経った今も、熊本城の石垣は多くが壊れたままで、
被災された方々の生活は、完全に戻ったとは言えない。
新型肺炎の流行は復興に大きな影響を与えていると聞いた。



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私たちの「平安」は
なんと脆い地盤の上に成り立っていたのだろうと改めて思う。


「当たり前」だったことが「当たり前でなくなって」
やっと思い出す、やっと自分のこととして考えられる。



2020年の今、
地球規模の困難に身体を張って闘ってくれている人たちがいる。
社会生活の維持に奔走してくれている人たちがいる。
気遣ってくれる人たちがいるし、明るい気持ちにさせてくれる人たちもいる。



そんな中での私たちの「いのち」。生かされている「いのち」。
自分で、注意深く、大事に守らなくては。



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この夏、4年前の地震で寸断されたJR豊肥線が全線復旧するそうだ。
国道57号も復旧の見通しだという。
大分と熊本の行き来がやっと楽になる。


今は県外への移動は慎まなくてはならないが、
夏にはコロナも鎮まっていてほしいと切に願っている。




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9年。 [忘れてはいけないこと]

2011年は、
ある意味、過去を振り返るときの
道標のような年だと言える。


この9年の間に
「想定外」と言われることが多発している。
現在のコロナウイルス感染もしかり。 
2020年もそんな特別な年になるのだろうか。


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春の田舎道を夫と歩くとき、お宮や道ばたの小さな祠に手を合わせ、
ささやかな安寧を祈っている。


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それは、私たちだけではないようだ。


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阪神・淡路大震災から25年 [忘れてはいけないこと]

2020年1月17日。
阪神・淡路大震災がきっかけとなって、
被災した外国人に「わかりやすい日本語で情報を……」と考案された「やさしい日本語」。
研究チームの弘前大学社会言語学研究室のホームページが閉じられました。

http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/kokugo.html

「やさしい日本語」を通して、
情報伝達のための言葉について学んだ人は多いことでしょう。

閉鎖の経緯は……。
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/minkei/region/minkei-hirosaki1372

これからはもっと自分たちで考えて……という願いがあるようです。


でも、現実の場面で「情報の伝達」には溝があるようです。
2016年の熊本地震の避難所で、
「日本語でいいから話しかけてほしかった。」という外国人留学生がいたそうです。

その場に直面したとき、何ができるのか……考えなくてはならないことは多いです。



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地震が多いこの国。火山も。
ヒビの入ったおせんべいのような地面の上に私たちは生きています。
いつどこで何が起きてもおかしくないというけれど……。


https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200117/k10012248511000.html?utm_int=all_side_ranking-access_002


1月17日の広島高裁の決定は、当然だと思いました。


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医者、用水路を拓く [忘れてはいけないこと]

残念で残念で、残念でしかたがないです。



「百の診療所より一本の用水路を!」


中村哲さんの講演を聴いたとき、
胸が熱かったです。
本当に本当に大事な人だったのに。



彼の思いが多くの人に
途切れることなくつながっていきますように。



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お母ちゃんの戦争体験記③記憶の確認 [忘れてはいけないこと]

昭和20年5月5日、熊本と大分の県境上空あたりで、
B29と紫電改が交戦し、二機とも墜落。
その様子を女学校へ行く道で、お母ちゃんは目撃していた。





8月6日、台風8号が過ぎ去った後、
お母ちゃんを連れて、B29と紫電改が墜落した現場に向かった。



最初にB29の墜落現場を訪れた。



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ここには、地元の有志によって立てられた「殉空の碑」がある。



竹田市から久住高原へと続く県道の途中に案内板があり、
そこから2キロほど山道を走ると山間部に集落、
そこから、また1キロという、本当に山の中である。


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車を停め、碑があるところまで200メートルほど歩かなくてはならない。
大丈夫かと心配したけれど、お母ちゃんは現場を見たいのだろう、しっかり歩いていく。



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お母ちゃんの話から、田んぼか畑の中を想像していたが、
雑木林の山の中。


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今も、墜落の後が残る。


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地元の方の記憶に残った風景が、碑に刻まれている。



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お母ちゃんも、初めて訪れて、「こんな所だったんだ。」何度も呟いている。


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パラシュートで降下した乗員の最期を思うとやるせない。


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乗員12名のうち、生き残って国に帰れたのは、ただ一人だった。



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                                 B29の残骸だろうか。



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殉空の碑には、紫電改に乗っていた粕谷飛行兵曹(19歳)と
犠牲になった11名のアメリカ兵の名前が刻まれている。


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女学校からの帰り道、ユリちゃんが目撃したアメリカ兵はどの人だったのだろう。


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…………



次に、紫電改が落ちた場所を訪ねた。
方向としては、B29の墜落現場より阿蘇の方向になる。


谷を下り、山道を登り……ここもまた、深い山の中である。


場所はすぐにわかった。
立派な慰霊碑がある。



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車を停めたとき、地元の方がいて、
「この碑の世話人はあの人だよ。」と言って、
離れたところにいた麦わら帽子の方を呼んでくださった。


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偶然にも、この地での悲劇を伝える中心となって活動している方に出会えたのだ。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/533403/

麦わら帽子の方は小林さんだった。



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お母ちゃんは、自分が見た記憶を一生懸命に語り、
小林さんは、一生懸命に聞いてくださった。
紫電改が墜落したのは、この谷間。


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当時真っ先に駆けつけ、救護に当たったのは小林さんのお母さんだった。

「水をほしがって亡くなったらしい。」とお母ちゃんが言うと、
やわらかに否定し、
「身体はまだ温かかったが、すでに亡くなっていた。」と彼のお母さんの話を伝えた。
お母ちゃんは納得した。


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小林さんから直接お話を聞けたことで、
いっそう事件が身近に感じられ、
小林さんたちが収集した飛行機の部品が語るものも大きく感じられた。


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今年の夏も、テレビでは
あの戦争を体験した人たちが、戦争を知らない世代に多くのことを語りかけていた。
痛ましい思いを胸に、真摯に訴えていた。

「戦争はいけない。」


お母ちゃんも、話の合間合間に繰り返し繰り返し
「勝っても負けても戦争はいけない。」とつぶやいた。


身近な体験談から、今年の8月6日は、特別な日になった気がする。



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若者の命や未来を簡単に奪うような国に成り下がってはならない。


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お母ちゃんの戦争体験記② [忘れてはいけないこと]

今日は、8月6日。台風8号は思いの外 勢力が強かった。
今朝方から急に雨風が強まって、
ニュースなど見ながら、畑や庭の心配をしていた。
ヨットは大丈夫だったかな。



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テレビでは、台風情報と広島平和記念式典の様子が流れていた。
一方、わが家では、お母ちゃんと戦時中の記憶を確認していた。



お母ちゃんは、昭和20年に竹田の女学校の二年生。
13か14で、飛行場作りにかり出された。
前の記事では飛行場作りに行ったのが「初夏」と書いたが、
いろいろ話しているうちに4月頃ではないかという話になった。

というのも、昭和20年の5月の初めに、母は歴史に残る事件を目撃しているからだ。
「飛行場作りに行ったときの前?後?」と夫が聞くと、
しっかり
「あと。」
と答えた。


女学校二年生のユリちゃんが、飛行場作りに行ったのは一回だけ。
その後学校に戻っても授業はなく、
校庭にイモを植えたり、竹槍の訓練をしたりしていたようだ。
竹槍をついた人形には、チャーチルとかルーズベルトとか書いてあったそうだ。



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ユリちゃんは二里の道のりを歩いて女学校に通っていたが、
朝の8時ごろは、東側から竹田市に入るトンネルを通る。
(竹田の城下町から有名な山城「岡城趾」へと続く道の下になる。)
「毎朝 そのトンネルのところで空襲警報が鳴る。」
と当時を語る。
そして、そのトンネルの中で警報解除を待つ。



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昔はもっと狭く、暗かった。



昭和20年、5月5日。

やはり空襲警報がなって、そのトンネルの中にいたら、
飛行機の音がして、
パンパンパンと撃ち合うような激しい音が鳴り響いた。
(音の表現はうまく言い表せないが、銃撃の音のようだ。爆発音ではない。)

トンネルの中にいた人たちと一緒にユリちゃんは飛び出した。

すると、高いところから、
大きな飛行機と小さな飛行機が燃えながら落ちている。


ユリちゃんたちは、
もっとよく見ようとして岡城趾へと続く坂道を駆け上がった。

そのとき、落下傘がいくつか落ちていくのが見えたという。



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山間の町中から、偶然に見た狭い空の風景。



大きな飛行機は、北九州方面の攻撃後帰投中だったB29、
小さな飛行機は、大村基地から追撃した紫電改である。



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紫電改は、熊本県境に近い竹田市久保の谷間に墜落し、
B29は、そこから東北東に9キロほど離れた竹田市平田の山間部に墜落した。

搭乗していた米兵12名は、熊本大分県境、竹田などに落下傘で降下し、
そのうち、墜落現場の平田付近では2名が捕らえられた。



後に捕虜の扱いとして凄惨な事件につながるB29の墜落を
ユリちゃんは目撃していたのだ。


    ※遠藤周作の「海と毒薬」で描かれたこの事件に関しては、
     私の拙い文章ではまとめることができない。
     また、墜落に到るまでの状況についてもネットで情報が多いので、
     そちらを参考にしていただきたい。
     私は、お母ちゃんの記憶を留めるだけにする。


     https://www.nishinippon.co.jp/item/n/469484/                         


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その日、女学校は慌ただしく終わった。
ユリちゃんたちは、昼頃下校する。
すでに、竹田のどこに飛行機が落ちたかということは明らかで、
現場を見に行くという生徒も多くいたようだ。


ユリちゃんは、現場に行かず下校する。
その帰り道のことだ。
女学校からちょっと歩いたところにある竹田警察署のところに来たとき、
通行を止められた。

何だろうと見ていると、
ジープのようなトラックが来て、警察署の前に停まって、
その荷台から、アメリカ兵が降りてきた。
(母の記憶では二人。)

初めて見たアメリカ兵(外国人)はとても大きかった。

そのアメリカ兵は堂々と歩いて、警察署に入っていった。

シャツは血だらけだったが、その血はもう乾いていた。
(この辺りの記憶は鮮やかで、何度話してもブレがない。)



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そして、その後のユリちゃんたちの情報交換の記憶。


その日現場を見に行った生徒によると、
墜落現場は縄を張って立ち入り禁止になっていた。
いろいろなものが散らばっていたが、
飴など食べ物もいっぱい散らばっていた。


墜落した小さい飛行機の日本兵は、大けがをしていて、
水をほしがったが、地元の人が水を飲ませたらすぐに亡くなった。

(この部分の記憶は、ネットの情報と食い違うので、
記憶違いと思われたが、 母はそう聞かされていたのだろう、
何度も繰り返していたので否定できなかった。)



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ここまで確認したところで、台風は通り過ぎた。
雨も風も止み、静かになった。


……というわけで、お母ちゃんを連れて、実地調査に出ることになった。
それは次の記事で。


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