「殿様、どこを通ったの?」岡藩参勤交代の道② [歴史探訪]
岡城跡を散策することが続いたが、この城にいた殿様は中川氏。
その前は、大友一族の志賀氏が居城としていた。
中川氏がこの地に来たのが、文禄3年(1594年)。
豊臣秀吉が朝鮮に出兵した直後のこと。
その後三年がかりで、修築を施し、今の城と城下町が作られていったみたい。
中川の殿様は江戸時代になってもそのまま竹田にいらっしゃったわけだが、
こんな山奥の、九州の真ん中からお江戸までの参勤交代は大変だっただろうなといつも思う。
南から岡藩領(の一部)
北から岡藩領(の一部)
岡藩の殿様の参勤交代の道筋は、漠然と頭の中にあった。
豊後大野市犬飼から大野川を船で下って、
大分市の三佐という所から、船で瀬戸内海を経て大阪……ということぐらい。
私たちが別府のハーバーに行くとき、
山越えの道に「今市」という有名な参勤交代の石畳道路が遺っているけれど、
あれは肥後の殿様が大分の鶴崎まで行くのに使っていたんだよ……とまあ、
ずいぶんいいかげんな、聞きかじりの知識である。
夫はもう少し詳しくて、ウォーキング途上で、
殿様はここから竹田を出て、東に向かったと説明してくれた。
地図を示すと、ここ。
ここは、岡城の下原門を東に下った挾田(はさだ)という集落。
志賀氏の頃は、下原門が大手門で、このあたりが城下だったらしい。
今は、静かな静かな田舎道。
近戸門から岡城跡を通り抜け、そのまま下原門を出て、東に下って挾田に出た日があった。
すれ違ったのは、岡城で二人連れ、挾田で三人の親子、それだけ。
ああ、農作業をしているおばちゃんと工事現場の人にあいさつしたかな。
下原門は、江戸時代には城の「搦め手(からめて)」、いわゆる裏口だ。
しかし、立派な石垣やそこから続く城内への道筋は本当に美しい。
下原門の風景は大好き。何回来ても同じような写真を撮ってる。
観光客の多くはここまで来ないなんて……。もったいない。
「でも、参勤交代でお殿様が城を出るとなると、
大手門(正門)から城下に出ていくのが筋だよね。」
岡城の場合、正門は西、裏門は東、行く先は東の方向。
実際に歩くと、東の下原門から挾田まではあっという間。
こっちの方が便利に思える。
「裏口の下原門から参勤交代に出ることなんてあり得るの?
近戸門は通用門だから、あそこから出ることはないよね?」
……疑問を語り合いながら田舎道を歩く。
「いったい殿様は、どう動いて、お城を出ていったの?」
私たちは、殿様の参勤交代のスタート部分を知りたくなっていた。
私たちが歩いた道を殿様も通っていたと思うと、何だか面白い。
前回の記事で、「ここが本当に参勤交代に使われた道?」という疑問もあったしね。
そこで、今回の歴史探訪の課題。
「殿様は、どこからお城を出て、どこの道から竹田を出ていったのか?」
(ヨットで言えば、スタート時のコース取りみたいなものかな。)
ここで、参考にしたのが地元の資料。
『大分県文化財調査報告書 「歴史の道」調査報告書 岡城路 大分県教育委員会』
昭和54年から56年の調査報告だ。
この資料からまずわかったことは、
参勤交代で竹田から出るルートが二通りあったということだ。
①峠越えルート 標高600メートル以上を登る峠越え
現在の県道47号線方向に北の峠道へ上り、県道412号線辺りに出て東に向かい、
「今市」を通り肥後の殿様と同じルートを行く峠道。
何と、今市は、もともと岡藩の殿様が整備した宿場だったのだ。(ああ、勘違い。)
岡城から見れば、印の方向へ山を登っていくのだ。うへえ。
②川下りルート
挾田から出て、大野川沿いの犬飼から船で大分の三佐までの川下り。後の時代にできた。
私たちが記憶していたのはこっちだ。
ほお、ルートは二つあったのか!挾田から犬飼を通る川下りルートだけじゃなかったのね。
やっぱりちゃんと調べるって大事!
今までの知識は何だったのよと思うくらい、
知らなかったことがぼろぼろ出てくる。
さて、「殿様はどこからお城を出たか?」についてだが、
実は、①の峠越えルートの場合、殿様は、どの門からお城を出て、城下町をどう進んだかは
「わからない」。
調査報告書にこう書いてあった。
「出発門がどこか、城下町を通るコースは」となると、わかりきったことのようにあって、まったく謎である。」
岡城桜祭りでは大名行列が「下に~下に~」なんて練り歩くけれど、
城下での実際の動きはどうだったのか、わからないようである。
「往っては翌年復る」を繰り返しているわけだから、道筋はいろいろなのかも。
この報告書では、「出発門の件は後日の課題」とも記されている。
詳しいことは、地元の歴史に詳しい資料館で聞いてみればわかるかもと思っていたが、
この4月19日にオープンするはずだった竹田市歴史文化館「由学館」は、
この騒ぎで開館が延期となっている。ここでも邪魔するか、コロナ!
しかたない、しばらく待つか。
ただ、峠越えのルートを選んだときの竹田城下の出口は推定できている。
そこで、資料を参考にして、夫がGoogleマップで予習して、早速歩いてきた。
実際に歩けば、またまた「え~!ここ?こんなとこ!」
感想は言うまでもない。「山の中の藩の殿様って大変ね。」
果たして殿様が歩いた道は今も残っているのか?
まるで不審者かと思われそうな山歩きもやったフィールドワークは、また次で~。
しかし、資料を読んで、歩いて、撮った写真を選んで、文章にまとめて……つ、つらい。
久々のお勉強は疲れる~(;.;)
昨日は、畑に行く以外ずっとお勉強だった。
今日ちょっと調査ウォーキングをしたら、またまた文章を書き換えなくてはならなくて、
「何でこんなことを始めちゃったんだろう。」と面倒になる。
このブログって、たしか「ヨット日記」だったよね……。
海じゃなくて、山の中のことばかり……。海が恋しくなりそう。
でも、コロナが落ち着くまで他にできることもないから頑張ろう。
よろしかったらおつきあいください。
その前は、大友一族の志賀氏が居城としていた。
中川氏がこの地に来たのが、文禄3年(1594年)。
豊臣秀吉が朝鮮に出兵した直後のこと。
その後三年がかりで、修築を施し、今の城と城下町が作られていったみたい。
中川の殿様は江戸時代になってもそのまま竹田にいらっしゃったわけだが、
こんな山奥の、九州の真ん中からお江戸までの参勤交代は大変だっただろうなといつも思う。
南から岡藩領(の一部)
北から岡藩領(の一部)
岡藩の殿様の参勤交代の道筋は、漠然と頭の中にあった。
豊後大野市犬飼から大野川を船で下って、
大分市の三佐という所から、船で瀬戸内海を経て大阪……ということぐらい。
私たちが別府のハーバーに行くとき、
山越えの道に「今市」という有名な参勤交代の石畳道路が遺っているけれど、
あれは肥後の殿様が大分の鶴崎まで行くのに使っていたんだよ……とまあ、
ずいぶんいいかげんな、聞きかじりの知識である。
夫はもう少し詳しくて、ウォーキング途上で、
殿様はここから竹田を出て、東に向かったと説明してくれた。
地図を示すと、ここ。
ここは、岡城の下原門を東に下った挾田(はさだ)という集落。
志賀氏の頃は、下原門が大手門で、このあたりが城下だったらしい。
今は、静かな静かな田舎道。
近戸門から岡城跡を通り抜け、そのまま下原門を出て、東に下って挾田に出た日があった。
すれ違ったのは、岡城で二人連れ、挾田で三人の親子、それだけ。
ああ、農作業をしているおばちゃんと工事現場の人にあいさつしたかな。
下原門は、江戸時代には城の「搦め手(からめて)」、いわゆる裏口だ。
しかし、立派な石垣やそこから続く城内への道筋は本当に美しい。
下原門の風景は大好き。何回来ても同じような写真を撮ってる。
観光客の多くはここまで来ないなんて……。もったいない。
「でも、参勤交代でお殿様が城を出るとなると、
大手門(正門)から城下に出ていくのが筋だよね。」
岡城の場合、正門は西、裏門は東、行く先は東の方向。
実際に歩くと、東の下原門から挾田まではあっという間。
こっちの方が便利に思える。
「裏口の下原門から参勤交代に出ることなんてあり得るの?
近戸門は通用門だから、あそこから出ることはないよね?」
……疑問を語り合いながら田舎道を歩く。
「いったい殿様は、どう動いて、お城を出ていったの?」
私たちは、殿様の参勤交代のスタート部分を知りたくなっていた。
私たちが歩いた道を殿様も通っていたと思うと、何だか面白い。
前回の記事で、「ここが本当に参勤交代に使われた道?」という疑問もあったしね。
そこで、今回の歴史探訪の課題。
「殿様は、どこからお城を出て、どこの道から竹田を出ていったのか?」
(ヨットで言えば、スタート時のコース取りみたいなものかな。)
ここで、参考にしたのが地元の資料。
『大分県文化財調査報告書 「歴史の道」調査報告書 岡城路 大分県教育委員会』
昭和54年から56年の調査報告だ。
この資料からまずわかったことは、
参勤交代で竹田から出るルートが二通りあったということだ。
①峠越えルート 標高600メートル以上を登る峠越え
現在の県道47号線方向に北の峠道へ上り、県道412号線辺りに出て東に向かい、
「今市」を通り肥後の殿様と同じルートを行く峠道。
何と、今市は、もともと岡藩の殿様が整備した宿場だったのだ。(ああ、勘違い。)
岡城から見れば、印の方向へ山を登っていくのだ。うへえ。
②川下りルート
挾田から出て、大野川沿いの犬飼から船で大分の三佐までの川下り。後の時代にできた。
私たちが記憶していたのはこっちだ。
ほお、ルートは二つあったのか!挾田から犬飼を通る川下りルートだけじゃなかったのね。
やっぱりちゃんと調べるって大事!
今までの知識は何だったのよと思うくらい、
知らなかったことがぼろぼろ出てくる。
さて、「殿様はどこからお城を出たか?」についてだが、
実は、①の峠越えルートの場合、殿様は、どの門からお城を出て、城下町をどう進んだかは
「わからない」。
調査報告書にこう書いてあった。
「出発門がどこか、城下町を通るコースは」となると、わかりきったことのようにあって、まったく謎である。」
岡城桜祭りでは大名行列が「下に~下に~」なんて練り歩くけれど、
城下での実際の動きはどうだったのか、わからないようである。
「往っては翌年復る」を繰り返しているわけだから、道筋はいろいろなのかも。
この報告書では、「出発門の件は後日の課題」とも記されている。
詳しいことは、地元の歴史に詳しい資料館で聞いてみればわかるかもと思っていたが、
この4月19日にオープンするはずだった竹田市歴史文化館「由学館」は、
この騒ぎで開館が延期となっている。ここでも邪魔するか、コロナ!
しかたない、しばらく待つか。
ただ、峠越えのルートを選んだときの竹田城下の出口は推定できている。
そこで、資料を参考にして、夫がGoogleマップで予習して、早速歩いてきた。
実際に歩けば、またまた「え~!ここ?こんなとこ!」
感想は言うまでもない。「山の中の藩の殿様って大変ね。」
果たして殿様が歩いた道は今も残っているのか?
まるで不審者かと思われそうな山歩きもやったフィールドワークは、また次で~。
しかし、資料を読んで、歩いて、撮った写真を選んで、文章にまとめて……つ、つらい。
久々のお勉強は疲れる~(;.;)
昨日は、畑に行く以外ずっとお勉強だった。
今日ちょっと調査ウォーキングをしたら、またまた文章を書き換えなくてはならなくて、
「何でこんなことを始めちゃったんだろう。」と面倒になる。
このブログって、たしか「ヨット日記」だったよね……。
海じゃなくて、山の中のことばかり……。海が恋しくなりそう。
でも、コロナが落ち着くまで他にできることもないから頑張ろう。
よろしかったらおつきあいください。
2020-04-27 22:23
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コメント(2)
大名行列はコース以外にも疑問が沢山あります。
「下にー下にー」ではいつになったら江戸に到着できるのかとか・・。
by くんちゃん (2020-04-28 08:09)
>くんちゃん様
そうなんですよ、調べれば調べるほど
興味深いことがいっぱいでてきて、
いつも「へえ」って言ってます。知らなかったこと多すぎ!
岡藩からは40日ちょっとかけてお江戸に向かっていたようですが、
場所によって人数を絞って動きを軽くしたり、
途中まで見送って帰ってきたりとご家来衆も大変だったようです。
いろいろ想像しながら歩くのはおもしろいです。
by ちはやママ (2020-04-28 12:58)