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舟が森を走る③ 蝙蝠の滝の偉業 [歴史探訪]

明治5年の秋に犬飼~沈堕の滝の通舟工事が終わると、
早速明治6年には、上流の沈堕の滝~竹田の通舟について切実な嘆願が県に提出される。
しかし、地形が複雑な上に蝙蝠の滝などの難所があることから、なかなか工事の許可が出なかった。


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写真左が下流


明治7年には再三の嘆願書が提出され、
地域住民への説明会なども開かれて、9月、着工に漕ぎ着ける。

その工事も困難を極めたが、明治8年3月に工事の終了を見る。
沈堕の滝~竹田までの工事期間約五ヶ月、実働した人員は約二万六千人。
数々の困難を克服しての通舟工事だった。


……なんて、さらりと経過報告を書いたが、
残された資料は、本当に大変な工事だったことを物語っている。



大野川流域の人々の思いを一つにした「舟を通そう」という「熱情」は、
堅い岩を穿ち、岩盤を爆破、巨石を動かすという難工事を克服し、
しかも冬の寒さに耐えつつ流水と戦うエネルギーとなったのだから、
すさまじいとしか言いようがない。




工事区間最大の難所が蝙蝠の滝であった。


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岡城東側の下にも十川(そうがわ)の滝があったが、ここは滝の岩盤を斜めに割り掘って、
舟路を完成させ、岡城下への舟道が切り拓かれた。

岡城散歩の時、ときどき通っている場所だ。


(これって、自然にできた流れじゃなかったんだ……。)

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蝙蝠の滝は高さがあるから、斜めに削ることができなかった。
どうやってこの高さを克服しようとしたか、現在の写真と一緒にご覧いただこう。



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わかりにくいが、矢印が舟路。

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①滝の上は、凝灰岩の川底を割り掘って水路のように舟路が作られた。 山林入り口付近には、舟路の水量調整のための溝が掘られている。

   (これは堅いよ……。)

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   (工事の跡?)

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   (ノミの跡とかあるらしいよ。)


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   (これが水量調整用の排水溝だね。これを作るだけでも大変……。)


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②滝を迂回するために山林内に深い掘り割りを作った。


   (おおっ!ここを舟が……。)

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  (約60メートル、舟が森の中を走ったんだ……。)

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   (幅3~4.5メートル、深さ2.5~4.5メートル。)

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   (ここにも工事の跡があるね。)

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③掘り割りだけでは、滝下の水面に着水できないから、滝下に行くために長い石垣を組み上げて、その上に大きな滑り台(木造の樋)を作って、舟が滑り降りるようにした。


   (ここは掘り割りの出口、滑り台の上の方だね。ここから斜めに滑り台があった。)

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   (横から見れば石垣が見えるはず。その写真が欲しかったな。石垣は50メートル!!)

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   (かなりの傾斜だよ。ここに滑り台-木造の樋-があったの?)
   (よく舟が壊れなかったなあ!)
   (いやいや、実際に壊れたこともあったらしいよ。)


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大野川通舟を企画した殿様と領民の思いは、新しい時代になってようやく叶えられた。
開通当時の人々の喜びは大きく、明治10年頃からは舟運業が始まっている。
明治30年ごろまでは経済効果があったことも碑文などから推察できるという。




しかし、蝙蝠の滝の滑り台(木造の樋)は毎年の洪水の度に壊れ、
その修復はかなり煩わしいことであったようだ。

出水時の写真からもわかるように、
雨が続けば、滝だけでなく大野川全体にも大きな危険が生じたはずだ。
明治18、9年頃には山間部も県道村道が整備され始めたというから、
しだいに川は使われなくなっていったのだろう。
沈堕から下流の大野川に比べ、上流の方は早く通舟が終わったらしい。
いつが終わりの時かはわからない。


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後に、使われなくなった舟路を狭め、水車小屋ができた。その跡が遺されている。

  (この石垣は水路を狭くしてたんだ……。)

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山林中の掘り割りの入り口は、水が通らないように石垣が積まれ、
舟路は閉鎖されてしまっている。



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明治42年、上流に発電所の取り入れ口ができたから、この頃には舟運も途絶えていたらしい。
 
  (発電所に行く水って、けっこう多いんだね。)

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竹田の町を流れる稲葉川。
大きな洪水があってから河川工事が進み、当時の面影は残っていない。

  (どこを舟が通ったのかな?船着き場はこのちょっと上流だね。)

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通舟の悲願達成なるも半世紀も続かなかった大野川通舟の歴史。



私の祖父は次のように書き残している。

「……あのコウモリの滝に大樋を架して舟を実際に通した当時の人たちの強烈な意欲は、驚くべくして且つ忘るべからざるものがある。大野直入という山地居住者-我々郷土の先人達-の苦渋と、何とかしてこれを打開しようとした大野川通舟という事業の価値を無視することはできない。」

  (じいちゃん、本当にそう思うよ。じいちゃんからもっと話が聞きたかったよ。)



そして、市内の子どもたちが利用するジオパークの教本では、こう結ばれている。

「蝙蝠の滝は、自然の眺めがすばらしいだけでなく、大野川を利用し生活を豊かにしようと試みた人々の歴史も色濃くのこされています。蝙蝠の滝は、人の営みと自然景観が結びついた貴重な遺産です。」



                                        
蝙蝠の滝は、「蝙蝠滝舟路跡」として平成9年に大分県指定史跡と成り、
平成19年7月26日に国登録記念物になっている。


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山間部の深い谷間に眠っている「舟を森に走らせた」物語を
ここでまとめることができて、今、ちょっと達成感。
これもウォーキングの成果かな。
(今回書けなかったこの滝の工事のエピソードは、いつか書くかも。)





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7月16日 少し水が引いた蝙蝠の滝




動画、追加しました。


  
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舟が森を走る②  蝙蝠(こうもり)の滝 [歴史探訪]

雨が一日途切れた8日、蝙蝠の滝の展望所まで行ってみた。



4月、好天が続いていたときの蝙蝠の滝。

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そして、雨が続いた後の蝙蝠の滝。驚いた。

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動画でご覧いただこう。





大野川河口から約55キロメートル上流。
幅が120メートル、高さが約10メートル。

昔は、滝の上流にダムもなく、水力発電所に水を取られることもなかったから、
豊かな水量であったことだろう。

私の弟がくれた文献に、蝙蝠の滝は
「滝が水しぶきをとばして流れ、大きな音をたてている。滝の白い流れが虹を作っている。」
と書かれていたが、まさにこれかと思ったことだった。


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この滝を越えて舟が通った。
なぜこんなところを?どうやって?



以前、大分から犬飼を経て竹田に入るときの旧道について書いた。
険しい山道で、物流はどうなってたんだと疑問に思った。



大野川沿いの川港犬飼から河口の大分三佐までは舟が行き来していた。
じゃあ、竹田と犬飼の間は?
山間部に位置する岡藩、物流は山を越え、谷を渡る難路を、
徒歩、人肩と牛馬の背に頼るしかなかった。


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車というわけにはいかないのだ。荷馬車が通れるような道ではない。
崩れやすいところは石垣を積んだり石畳にしたり。それでも道は崩れる。
この数ヶ月、いろんな旧道を歩き回ったおかげで、
岡藩の人々の苦労が身にしみてわかってきている。



岡藩の殿様は考えた。
参勤交代や物資の往来について、
竹田から大野川全域を利用する川舟交通路はできないものかと。
竹田の町、岡城の北側を流れる稲葉川は、大野川の本流と合流し、東に流れる。
下の写真が稲葉川。(最近はこの辺りをうろうろしている。)

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今回使っているのは、10年前にセスナに乗ったときに撮った写真。
今頃役立つなんて!



大野川は、別府湾まで滔滔と流れている。この川を利用しない手はないではないか。
これは殿様だけでなく、岡藩領民の願いであったようだ。
舟で岡藩からの荷が運べたら、どんなに楽だろう。


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ところが領地の関係でうまくいかないんだなあ。




大野川を犬飼まで下るとき、一部だけお隣の臼杵藩領が入り込んでいる。
片側だけでも岡藩領なら問題ない。
ところがわずかな距離(2.9㎞)だけ、両岸とも臼杵藩という場所があるのだ。
だから、その間は、臼杵藩の許可がなくては岡藩は舟を通すことができない。
まさにのど元に刺さった骨。


うまいこと その辺りの写真もあった!


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岡藩も臼杵藩に交渉を繰り返したようだ。
しかし、再三の交渉にも受け付けてもらえない。
とうとう幕末まで、竹田から犬飼まですいっと舟で……という目的は叶えられなかった。
岡も臼杵も小藩、隣同士でいろんなお国事情が絡んでいたのだろう。



で、時代はあっという間に明治へ。


明治4年、廃藩置県。
岡藩も臼杵藩もなくなった!境界もない!今こそ、大野川を使って経済発展を!
という岡藩の人たちの江戸時代からの悲願が果たされるときがやってきたのだ。
早速明治5年には大野川流域の人たちから
「大野川通船」の要望が県へ提出されたというから、
本当に切望していたのだ。


ここでは書ききれないくらいの陳情や準備を経て、
第一段階の犬飼~沈堕の滝の舟路ができた。


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第二段階は沈堕の滝からさらに上流の竹田まで。


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沈堕の滝は、舟を乗り換えることとして、蝙蝠の滝の落差をどうクリアする?


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ここに「滝を迂回して森の中に舟道を作る」という大事業が計画されたのだ。
今も残る舟道を黄色い線で示してみた。


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ああっ、空の旅を楽しんでいたら、紙面取り過ぎ。

舟道の様子は、また次で。
                                      


※この文章を書くにあたっては、
郷土史を研究していた祖父が書き残したものと弟がくれた資料が役に立ってます。
じいちゃん、弟よ、ありがとう。

                                                                             
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舟が森を走る①  蝙蝠(こうもり)の滝 [歴史探訪]

このブログでよく登場する風景が「原尻の滝」。
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雪舟の訪れた「沈堕の滝」も何度か紹介した。
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いずれも別府湾に注ぐ大野川水系の滝である。




実はもう一つ、豊後大野市には有名な滝がある。
その名を「蝙蝠(こうもり)の滝」と言う。

写真をご覧いただこう。


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なるほど蝙蝠の形と言えばその形である。


この滝は、原尻の滝や沈堕の滝のように
「ちょっと寄って見てこよう。」という場所にはないのが残念だ。



もうずいぶん前になるが、この春、国道沿いの神社に車を置いて、
蝙蝠の滝まで歩いたことがあった。


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前の記事のお母ちゃんが育った場所、
発電所の取り入れ口の近くである。


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ウグイスの声が響いて、新緑がまぶしい日だった。


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棚田に続く細い道を歩いていくと、展望所の看板が出ている。


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これまで何度も聞いた名前であるが、
実際に見るのは初めてである。地元なのに。
それだけ行くにはちょっと気合いの要る場所。
夫は前に来たことがある。


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へえ、ここが蝙蝠の滝……と、滝を上からしばらく眺めていた。



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さて、あの滝壺を傍から見てみたい。
さらに、山道を川の方へ下る。


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川の傍まで下って、発電所の取り入れ口から行けると思っていたが近寄れない。
杉林の中をうろついて、やっとたどり着いた。


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おお、ここが!


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この日はマクロレンズしか持っていなくて、全体を捉えるのが難しかった。
滝の位置の関係で、正面はあの展望所からしか見られない。


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何とか構図を決めようとするが……。


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なるほど、岩肌は原尻の滝とよく似ている。


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阿蘇溶結凝灰岩の堅い岩間を流れ落ちる滝。
天気の好い日が続いていたので水量は多くないが、
発電所もダムもなかった昔は、見事な滝であったろう。


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原尻の滝、沈堕の滝、蝙蝠の滝と、本当に名瀑の多いところだ。
面白い景色だ。


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大きな鯉もいるなあ。


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でも、この蝙蝠の滝がすごいのは景色だけじゃない。


すんごい谷間に蝙蝠の滝はある。
滝の上流へさらに大野川を遡ると岡城跡のある竹田市。


竹田から大野川を使った舟路を切り拓いた先人のドラマが
この滝には残されている。



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※広域が見られるようにスクロールしてください。
 深い谷間にあることがよりわかります。



国道10号や豊肥線沿いを流れる大野川。
昔、豊後大野市犬飼から河口までは、舟が利用できるほど水量も多かった。
国道が整備されるまでは、舟が行き交う様が見られたという。
岡藩の殿様も、犬飼まで出て船に乗って川を下った。

蝙蝠の滝はそのはるか上流だ。
「こんなところに舟を通そうとしたなんて。」
聞いたことはあったが、現場を実際に見てみると、
車社会に生きている私たちの生活からは考えられないような苦難があったんだなあと
しみじみ感じたことだった。


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舟路のことについて勉強した成果はまた次で……。


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「殿様、どこを通ったの?」岡藩参勤交代の道④ [歴史探訪]

岡城本丸跡から見た久住連山。


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5月7日、その久住山方面に行く途中、県道47号線から岡城方向を眺めてみた。
岡城跡がよく見えた。


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私たちは、岡城跡から見れば、下の写真の水色の矢印の下にいる。



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実は、手前の山の稜線の向こう側に参勤交代道路の名残がある。
黄色の矢印の下辺り。岡城跡から約10キロの地点である。


……雨で何もできない今日は、
山の中の参勤交代道路を探して、杉山の中をうろついた話でも。





私たちは、県道47号線(水色矢印)から参勤交代道路のある場所を眺めている。


「あの辺りだね。」
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実際に杉林の下の参勤交代道路を確認したのは、
4月22日のことだった。



岡藩の殿様が通った参勤交代の道を確認しようと
いつもながらの好奇心で山道に入っていった。
資料で確認したルートを実際に見てみようというわけだ。


県道47号線に沿った集落の名前をたどれば旧道が推測できる。
夫はこのところ資料を手がかりにGoogleマップで旧道を探していた。
現在の県道とは違った険しい山道だ。



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県道から山中の集落に向かう道(上の写真)があって、
そこから少しそれた谷間の道に残骸が残されている。
ここは、まだ山の下の方。


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確かに石畳の跡がある。


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県道47号線に戻り、さらに車で広い道を登り、
また、山の中に向かうわき道に入る。
「ポツンと一軒家」に行くような道だ。


途中の狭い上り坂で、地元の方の軽トラと離合した。
                (※「離合」……方言と言うけれど、他の言い方がわからない。)

運転席から
「参勤交代の道がこの辺りにあると聞いたのですが。」
と夫が尋ねると
軽トラのおじさんは丁寧に場所を示して、情報をくださった。


「……新しく林道ができている。その近くにある。
林道は、参勤交代道路の石畳を保存するために、
石畳を避けて、道の上の方に作られた。
林道から下って、杉林の中に入れば殿様道はあるのだが、
今はあまり状態はよくない。…………。」


地元の人は殿様道として大事に思っているようだが、
すでに時の流れの中に埋没している道のようだ。



おじさんから聞いたとおりに山の中腹にある林道にやって来た。
車を置いて、林道下の南斜面をうろうろ。
高いところに来たなあ。


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石垣の積まれた段々畑があり、梅の木などが植えられている。



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この辺りは、中川氏が初めて岡に入封する際に通ったところだ。
ところが、大友氏の残党百余人が抵抗し、
中川秀成から徹底して踏みつぶされた……そんなコワイ場所らしい。
村境にさらし首が並んだとか……。



伐採した杉を運び出す道から、杉林を目指す。


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夫は獲物でも探すかのようにずんずん進んで行く。


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私は、もう面倒くさくなっていた。
「本当に道があるのかよ。もう帰りたい……。」


(*`Д´*)




杉山の奥の上の方から夫の声がする。



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あった。石畳だ。おじさんの説明通り!
あきらめなくてよかった。


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急に写真の色調が変わったのは、さっき転んだせい。 ↑(*`Д´*)のところで。
転んだはずみで、レバーを動かしたのだろう。


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崩れやすいところは石垣を積んで補修したようだ。



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こんな山の斜面を殿様一行は通って行ったのだ。
その頃は杉もなく、道も明るかったとは思うが、
ちょっとでも雨が降れば崩れ落ちそうな道だ。
牛、馬、人肩に頼るばかりで、荷車などは到底通れそうにない。


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確認したところで引き返すのかと思ったら、夫はさらに道なき道を登っていく。
姿が見えなくなったので、私も慌てて後を追い、
笹の中をやっと這い上って林道にたどり着いた。
とんでもないウォーキングである。



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夫は先に林道に出て、涼しい顔をして、私を待っていた。





林道から下の谷間を眺めた。


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昔の人は、よくまあこんな峠をこんな谷間から……と感心するばかり。
参勤交代ともなれば行列がぞろぞろと……殿様は御駕籠?
お尻が痛くなるだろうし、こんな坂道じゃ、斜めに揺れて気持ち悪いんじゃないかな。


私が殿様なら、
「予は馬で先に行く。駕籠はあとからついて参れ。」
とかなんとか言って、竹田の町を出たら、
この先の宿泊地「今市」まで20キロちょっと、
少数の家来を連れて馬で駆け抜けるよな……なんて、勝手な想像をしていた。



現在は広い県道を車ですいすいと楽に登る。



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江戸時代は山の斜面を這い上るような狭い道を行かなくてはならなかった。
途中で一泊して、大分方面へ向かう。
難儀だなあ。





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参勤交代の道は、さらに登って標高621メートルの峠まで行く。
標高差は岡城の下から約400メートル。



標高620メートルを越す参勤交代道路、
「天空の参勤交代道路」という言葉が浮かんだが、
有名な箱根峠は標高800メートルを越えなきゃならないし、
全国には、まさに「天空」、1000メートルを越す峠越えをする藩も多くあったようで、
つくづく参勤交代って難儀なモノだと思ったことだった。



今回の探索の場所を再確認。
たぶん、二度と行くことはない!


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後の世、岡藩の殿様は、
竹田から大野川沿いの犬飼まで行って、そこから舟を使うルートを利用するようになる。
(年によってはこの道を使うこともあっただろうが、)
舟路を使うようになるのは当然だと思える。


……というわけで、岡藩の殿様の参勤交代の峠越えルートは「けり」をつけて、
次は舟路コースについて。


記事にまとまるのはいつになるかわかりませんが、
よろしかったらおつきあいください。

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「殿様、どこを通ったの?」岡藩参勤交代の道③ [歴史探訪]

岡藩の殿様が参勤交代の時、
竹田のどこから出ていったのか……を探りながら
竹田の町をほっつき歩いている。


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人の多そうな中心部ではなく、岡城周辺の人気のないところ。
「今日会ったのは……。」と、すれ違った人を覚えているくらいだから、
ホントに人に会うことが少ない。

あるとき、マスクをしたおばちゃんが家の外にいて、こっちをじっと見たので、
嫌がられてるのかなと思ったら、
「散歩にはいい日だね!」と声を掛けてくれて、ちょっと安心した。


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さて、4月の終わりから5月初めのウォーキングは
殿様が「峠越えルート」で参勤交代に行くときの
竹田からの「出口」を探ってきた。これは岡藩の殿様の初期のルートだ。

資料では、「七里口」「赤坂」の二カ所が候補として挙げられている。

※『大分県文化財調査報告書 「歴史の道」調査報告書  岡城路  大分県教育委員会』
 昭和54年から56年の調査報告


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4月27日は、「七里口」方面を探索。


事前に、夫が資料を片手に、「ストリートビュー」で旧道の目星をつける。
……ストリートビューは役に立つなあ。



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で、写真は七里口とおぼしき道の入り口。
岡城の北、古刹が並ぶ稲葉川沿いの道から山手に入り込む。

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狭い谷間だが、古い石垣が閑静な雰囲気を作り出している。
緑色の空間にウグイスの声が響き渡る。


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へえ!こんな静かな、感じの良い場所があったんだ!!
こんなところに住んでる人って羨ましい。
この先は小さなトンネルがあって、竹田市役所方面につながっている。

……ストリートビュー撮影車は、こんな細い道まで入ってる。
  




(地図上では竹田森林事務所近くの細い道)


  



ゆるやかな坂道を登って、この先はトンネルがあるなんて話していたら、
急に左側の山の斜面を夫が指さした。(ストリートビューでも何となくわかる。)
と、もうそこをどんどん登っていく。こらこら。


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「私有地じゃないの?」
だれかのお宅の裏山って感じの場所なのに。
それでなくても外からの人間は警戒されてるこの時期に、
そんなところを登っていって、叱られないかな?とは思うのだけれど、
夫は遠慮無しにずいずい登っていくので、
しかたなくついていく。


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夫が坂道の途中で待っている。



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思わず「あらまあ、これ、旧道だわ。」
遠慮してたら見つけられなかった。


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この辺りでよく見られる旧道の風景!
阿蘇火砕流堆積物の岩盤をうがって、その下に側溝を掘ってある道!


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                                これは城北町の旧道。


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                                これは岡城跡



この、狭いところを這い上るような場所に昔の道!



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丘を登って下ると七里と呼ばれる地域に出た。


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左の道を下りてきた。


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明るく開けた場所だ。



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稲葉川の氾濫を避けて作られた市役所や法務局、小学校などがある丘陵地帯で、
新しくてオシャレな家が並ぶ。
ここらは竹田の新しい中心地になっている。


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ここから北の峠越えルート(県道47号方面)につながっていると想像できる。


しかし、確かに旧道ではあるが、本当に殿様の行列がここを通ったのかなあ?
地元の人にでも会えたら聞けるんだけど。……聞けそうな人には全く出会わないのだった。





5月4日には、資料にある「赤坂」の峠道を歩いた。



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JR竹田駅の下手から、赤坂隧道を通らずに国道57号線に抜ける峠道だ。



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一度、車で通り抜けた。
夫は昔、仕事でこの道を通ったことがあるが、私は初めてで、
あまりに狭い斜面の坂道に夫が車を入れるので肝を冷やした。
Googleの撮影車も、ちゃんと通っているんだけど。


ゆっくり歩いてみると、この道も旧道の様を呈していた。


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谷間から岡城方向を眺める。


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細い坂道ではあるが、人家も多く、難なく峠越えルートの途上に出た。
私たちは、57号線を横切り、県道47号線を少し北に向かって歩き、
資料にのこる参勤交代道路の地名を確認した。


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うん、岡城からならこの出口から行くのがいいんじゃないの?


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後日、天明7年(1787年)の古い竹田の地図が手に入った。

岡城を中心に、実に様々な道が描かれている。
重要な道は太線で書かれ、そうでもなさそうな道は細い線で書かれている。

赤坂峠を越える道は太かった。
七里の峠越えはあまり太くない。

殿様が岡城の大手門を出て、どこをどう歩いたかはわからないが、
赤坂の峠を越えて北方向に向かい、山を越え、肥後街道と合流する
というルートがいちばん動きやすいように感じた。

……撮影車が通れてるってわけじゃないけど。


いずれ、竹田市歴史文化館・由学館が開館したら研究成果を確認しにいくつもり。



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実際に旧道をたどって歩いてみると、
今の車社会の概念を全く捨てないとダメだってことがわかった。 
まず、トンネルってものもないしね。
でも、人が通れそうな道がどこにでもつなげられていて、
昔の人は歩いて、歩いて、歩いて、道を切り拓いていた。

その道の多くは今は藪に埋もれている。
私たちが見た、ちょっとした痕跡もほどなく、消えていくんだろうな。


ダイエットと頭の体操を兼ねてのウォーキングは
ネタと写真ばかり貯まって、記事にするのが追いつかない。
……でも、まとまったら記事にしますので、よろしかったらおつきあいください。


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「殿様、どこを通ったの?」岡藩参勤交代の道② [歴史探訪]

岡城跡を散策することが続いたが、この城にいた殿様は中川氏。
その前は、大友一族の志賀氏が居城としていた。


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中川氏がこの地に来たのが、文禄3年(1594年)。
豊臣秀吉が朝鮮に出兵した直後のこと。
その後三年がかりで、修築を施し、今の城と城下町が作られていったみたい。

  

中川の殿様は江戸時代になってもそのまま竹田にいらっしゃったわけだが、
こんな山奥の、九州の真ん中からお江戸までの参勤交代は大変だっただろうなといつも思う。


南から岡藩領(の一部)
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北から岡藩領(の一部)
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岡藩の殿様の参勤交代の道筋は、漠然と頭の中にあった。
豊後大野市犬飼から大野川を船で下って、
大分市の三佐という所から、船で瀬戸内海を経て大阪……ということぐらい。

私たちが別府のハーバーに行くとき、
山越えの道に「今市」という有名な参勤交代の石畳道路が遺っているけれど、
あれは肥後の殿様が大分の鶴崎まで行くのに使っていたんだよ……とまあ、
ずいぶんいいかげんな、聞きかじりの知識である。



夫はもう少し詳しくて、ウォーキング途上で、
殿様はここから竹田を出て、東に向かったと説明してくれた。


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地図を示すと、ここ。







ここは、岡城の下原門を東に下った挾田(はさだ)という集落。
志賀氏の頃は、下原門が大手門で、このあたりが城下だったらしい。
今は、静かな静かな田舎道。


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近戸門から岡城跡を通り抜け、そのまま下原門を出て、東に下って挾田に出た日があった。


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すれ違ったのは、岡城で二人連れ、挾田で三人の親子、それだけ。
ああ、農作業をしているおばちゃんと工事現場の人にあいさつしたかな。




下原門は、江戸時代には城の「搦め手(からめて)」、いわゆる裏口だ。
しかし、立派な石垣やそこから続く城内への道筋は本当に美しい。
下原門の風景は大好き。何回来ても同じような写真を撮ってる。
観光客の多くはここまで来ないなんて……。もったいない。



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「でも、参勤交代でお殿様が城を出るとなると、
 大手門(正門)から城下に出ていくのが筋だよね。」

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岡城の場合、正門は西、裏門は東、行く先は東の方向。
実際に歩くと、東の下原門から挾田まではあっという間。
こっちの方が便利に思える。


「裏口の下原門から参勤交代に出ることなんてあり得るの?
 近戸門は通用門だから、あそこから出ることはないよね?」


……疑問を語り合いながら田舎道を歩く。


「いったい殿様は、どう動いて、お城を出ていったの?」



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私たちは、殿様の参勤交代のスタート部分を知りたくなっていた。
私たちが歩いた道を殿様も通っていたと思うと、何だか面白い。
前回の記事で、「ここが本当に参勤交代に使われた道?」という疑問もあったしね。



そこで、今回の歴史探訪の課題。
「殿様は、どこからお城を出て、どこの道から竹田を出ていったのか?」
(ヨットで言えば、スタート時のコース取りみたいなものかな。)



ここで、参考にしたのが地元の資料。
『大分県文化財調査報告書 「歴史の道」調査報告書  岡城路  大分県教育委員会』
昭和54年から56年の調査報告だ。



この資料からまずわかったことは、
参勤交代で竹田から出るルートが二通りあったということだ。


①峠越えルート 標高600メートル以上を登る峠越え

 現在の県道47号線方向に北の峠道へ上り、県道412号線辺りに出て東に向かい、
「今市」を通り肥後の殿様と同じルートを行く峠道。
何と、今市は、もともと岡藩の殿様が整備した宿場だったのだ。(ああ、勘違い。)
岡城から見れば、印の方向へ山を登っていくのだ。うへえ。


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②川下りルート 
 挾田から出て、大野川沿いの犬飼から船で大分の三佐までの川下り。後の時代にできた。
 私たちが記憶していたのはこっちだ。



ほお、ルートは二つあったのか!挾田から犬飼を通る川下りルートだけじゃなかったのね。

やっぱりちゃんと調べるって大事!
今までの知識は何だったのよと思うくらい、
知らなかったことがぼろぼろ出てくる。



さて、「殿様はどこからお城を出たか?」についてだが、
実は、①の峠越えルートの場合、殿様は、どの門からお城を出て、城下町をどう進んだかは
「わからない」。

調査報告書にこう書いてあった。
「出発門がどこか、城下町を通るコースは」となると、わかりきったことのようにあって、まったく謎である。」


岡城桜祭りでは大名行列が「下に~下に~」なんて練り歩くけれど、
城下での実際の動きはどうだったのか、わからないようである。
「往っては翌年復る」を繰り返しているわけだから、道筋はいろいろなのかも。


この報告書では、「出発門の件は後日の課題」とも記されている。
詳しいことは、地元の歴史に詳しい資料館で聞いてみればわかるかもと思っていたが、
この4月19日にオープンするはずだった竹田市歴史文化館「由学館」は、
この騒ぎで開館が延期となっている。ここでも邪魔するか、コロナ!
しかたない、しばらく待つか。


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ただ、峠越えのルートを選んだときの竹田城下の出口は推定できている。
そこで、資料を参考にして、夫がGoogleマップで予習して、早速歩いてきた。

実際に歩けば、またまた「え~!ここ?こんなとこ!」

感想は言うまでもない。「山の中の藩の殿様って大変ね。」


果たして殿様が歩いた道は今も残っているのか?
まるで不審者かと思われそうな山歩きもやったフィールドワークは、また次で~。


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しかし、資料を読んで、歩いて、撮った写真を選んで、文章にまとめて……つ、つらい。
久々のお勉強は疲れる~(;.;)
昨日は、畑に行く以外ずっとお勉強だった。

今日ちょっと調査ウォーキングをしたら、またまた文章を書き換えなくてはならなくて、
「何でこんなことを始めちゃったんだろう。」と面倒になる。
このブログって、たしか「ヨット日記」だったよね……。
海じゃなくて、山の中のことばかり……。海が恋しくなりそう。
でも、コロナが落ち着くまで他にできることもないから頑張ろう。

よろしかったらおつきあいください。


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「殿様、どこを通ったの?」岡藩参勤交代の道① [歴史探訪]

人に会うことを避けて(避けなくても人がいない過疎地暮らしで)、
ダイエットウォーキングを続ける私たちだが、
だんだん地元でのフィールドワークの様相を帯びてきた。
歩けば、「へえ。」と思うことに出会える。

不安と心配、それ以上に怒りが募る毎日だけど、腐ってばかりはいられない。
この際、地元のことに詳しくなるのもまた一興。
そんな「歴史探訪」の一部をご紹介。(ヨット日記はしばらくお預け……。)







「今日は岡藩(江戸)時代の旧道に行こう。」と夫。


竹田の城下町は、四方を山に囲まれ、
どこから入るにしてもトンネルを通らなくてはならない。
岡藩七万石は、九州山地の中にあり、城下はまさに九州のチベット。


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トンネルの掘削が困難だった昔は、
いくつも峠を越え、山道を通って城下に入ってきたのであろう。
今の大きな道からは想像もできない細い山道。
私たちが歩こうとしているのは、こんな山道の一つである。


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「大分方面から竹田に入る旧道の一部だよ。」と夫は言う。
現在の国道57号のルートしか頭に浮かばない私は、
昔の道のイメージが浮かばないでいる。

江戸時代に信濃国から竹田に来た人の日記にも出てくるという道。
「なんでそんな道を知ってるの?」

夫は「雑学のおもちゃ箱」。
好奇心旺盛だから、何にでも首を突っ込んでいる。歴史もしかり。


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岡城跡の北側には稲葉川が流れ、
いつも車を停める旧小学校跡地の傍から橋を渡ると、
川沿いに英雄寺、碧雲寺、高流寺と三つの古刹が近接する通りがある。


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その通りから、竹田を囲む山々の北側の峠へ向かう。


高流寺の横を登る急坂に入ると、こんな看板があった。


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西南の役で、竹田は西郷軍に占拠され、官軍との戦いで
「焼失家屋1500戸余り、両軍の戦死者213人、負傷者400人以上という大変な犠牲を払った場所」
だった。
こんな処でも戦いをしていたのか。やはり主要道の入り口だからかな。


旧道の案内板はこれ。


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よくわからないけれど、大事な道だったってことはわかる。
多くの人が行き来した道なのね。
「参勤交代?」殿様も通ったの?


それが、え~?ここが~?というような道。


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狭い。いやいや昔の道だから当然だろう。
暗い。いやいや昔は杉林もなく、山は美しく、明るかっただろう。
危ない。城下の守りを考えれば切り立った崖の上を通すことも当然なのかも。


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しかし、この急勾配を、殿様の行列がどうやって通ったのよ!!
参勤交代のイメージがどうしても結びつかない。……疑問①



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ところで、20年ほど昔、私が土日もなく仕事に忙殺されていた頃、
休みになると、夫と娘は竹田の町を二人で歩き回っていた。
最後は老舗の和菓子屋さんで甘いものを食べて帰ってくるというおきまり。
その和菓子屋さんの店員さんから父子家庭と勘違いされ、
夫は縁談を持ち込まれたこともあったそうな。

あ、これは余談。

そのころ、この道はまだ整備されており、
夫と娘はバイクで通り抜けたらしい。
遊歩道だけど。


一度は、観光資源の遊歩道として整備されたのだろう。
しかし、今は全く忘れ去られたような道。

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古びた案内板や朽ち葉の重なる様子がもの悲しい。

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木々は生い茂り、その隙間から岡城が見える。


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お城を見ながら人が行き来したのだろうが、
「物流」はどうなっていたのかと疑問を持たずにはいられない。
大きな荷は運べないんじゃないの?……疑問②



昔は大事な道であったということは想像できるものの、本当にこの道しかなかったのだろうか。


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「他に道はなかったの?」としつこく夫に聞く私。
「この方面からはこの道です。」と夫はきっぱり。


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納得のいかないままにこのルートの終点に来た。
下の写真の右側の道を下ってきたわけだ。


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新しい道を通って、もとの通りに戻ってきた。



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結局、疑問①と②が地元発見の新たなフィールドワークになるのである。
なあんちゃって……。


歩いて疑問がわいて、ちょっと調べて、「へえ。」と思ったことがけっこうあったので、
お勉強の成果がまとまったら記事にしますね~。
よかったらおつきあいください。


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西南の役 竹田市の戦跡を歩く [歴史探訪]

竹田市を歩いてきました。
 

竹田市と言えば、
滝廉太郎が「荒城の月」の曲想を得た岡城趾が有名ですね。
(桜の写真は昨年の春のものです。)


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桜や紅葉の季節には
城下の風情を楽しみながら城跡まで歩く観光客が多いです。

岡藩藩主は中川氏、約七万石。
江戸時代には田能村竹田という南画の大家もいました。

近いところでは、童謡「犬のおまわりさん」を作詞した佐藤義美も竹田市出身です。
彫刻家朝倉文夫も、こちらの学校を出ています。

日露戦争時に旅順港封鎖で戦死した広瀬武夫も当地の出身です。



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歴史ある静かな竹田の街を愛している私どもですが、
ふとしたきっかっけで別の顔を知ると、
風景も違って見えるから不思議です。


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この町が西南の役に巻き込まれたことは
何となく知っていましたが、
興味を持つことなくこの年まで生きてきました。
ちょっと文献をあたってみますと、
美しい桜を愛でた場所のすぐ近くは激戦の地であり、
他にも見慣れた風景のあちこちに戦跡があることがわかりました。


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そこを実際に訪れてみますと、
地元の方々により各場所の西南戦争の説明がなされており、
この閑かな街が大きな戦禍に見舞われたことを知ることができるのでした。


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明治10年の5月13日、宮崎方面から突如薩軍が現れ、
竹田の町は薩軍に占拠されました。

十日後各方面から官軍が攻めて
竹田の町は戦火に包まれます。
5月29日、薩軍は町を焼いて敗走、東に逃れます。
(この後に前に書いた三国峠での戦闘になります。)

夫と歩いたのは、冬でないと到底歩けないようなやぶの中です。
薩軍の陣地の跡を見てきました。


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墓石などに弾痕があり、戦闘のすさまじさを物語っています。


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夫の家の言い伝えの
「薩軍が墓石を集めてめちゃくちゃにした。」
というのは下の写真のような状況だったかもしれません。


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現在では木立が覆っていますが、
昔は陣取った場所の防塁も町から見えたのでしょう。


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薩軍が占拠していた高台の神社にもその痕跡がありました。


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おだやかな街の歴史の一面にため息が出ました。


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久住山がよく見える高台の激戦の地には
歴史の目撃者である桜の木が立っています。
この春はこの桜を眺めたいと思います。


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西南の役 こんなところで…… [歴史探訪]

夫が指宿に行って治療を受けているとき、
同じ宿に泊まって同じくメディポリスで治療を受けている方々と友達になり、
とても親切にしていただきました。


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また、夫がよく行った山川の道の駅のおばちゃんも優しくてくださり、
土産はいつもそこで買ってくるのでした。


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夫曰く、「鹿児島の人は情が濃い。」と。



九州の広域を巻き込んだ「西南の役」の中心人物、
西郷さんも情の濃い人であったのでしょうか。


…………


西南の役の激戦は
私たちが住む地域でも繰り広げられていました。
これまで興味を持つことはなかったけれど、
西郷どんが逗留した指宿の鰻温泉を訪れたことがきっかけで、
その激戦の地まで行こうとしている……というところで年が暮れました。


PC010861.jpg鰻池



地元の歴史や文化財などに詳しい弟に資料をもらったり、
町史などを紐解いたりしてみますと、
あの時代、こんな山間の地方でも様々なドラマが繰り広げられていたのだと
感じ入るばかりです。



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私どもの家の前には国道に沿って川が流れています。
明治10年5月、橋向こうの道筋を薩軍が西に向かって通りすぎ、
竹田の町を占領しました。
しかし、官軍に攻められ、竹田の町を焼き撤退し、同じ道を東に敗走します。
町史には、通過する薩軍にどう対処すべきか
非常に困惑した祖先の記録が細かに残されています。


5月末には三重というところが激戦の地となり、
6月は宮崎につながる山岳地帯で攻防戦を繰り広げ、
薩軍はとうとう宮崎方面に敗走するのです。


交通の要所でもあった三国峠で、
かなり激しい戦闘があったのは、6月17日。


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今は通る人もまれな山道を車で上っていきます。
細い道が幾筋も尾根筋を走り、交わっては谷に下っていきます。


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旧道の旧道と思われる道に出会うと車を停め、
夫は偵察に出かけます。


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一人残されると急に不安になってしまうような山の中の道です。


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住人のいなくなった家が何軒かありました。


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高いところに来て、だんだん見晴らしがよくなってきました。
西には、阿蘇の外輪山が見えます。


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薩摩の人たちは
この急峻な道をどんな気持ちで歩んで戦いに赴いたのか
その「熱情」はどこから来たのか
私には想像もできません。


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三国峠に着きました。
車を置いて、さらに10分ほど登ります。



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峠に着きました。
傾山、祖母山、阿蘇山、久住山、そして、由布岳や鶴見岳も一望できます。



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この山の中のあちこちに
薩軍、官軍の築いた土塁の跡が何十カ所もあるのだそうです。
こんな深い山の中に。


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死者を悼む碑も在ります。



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飫肥(宮崎)の人を悼む碑もありました。


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こんな美しい場所で凄惨な戦いがあったのだと思うと
何だか言葉も少なくなってしまうのでした。



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