舟が森を走る② 蝙蝠(こうもり)の滝 [歴史探訪]
雨が一日途切れた8日、蝙蝠の滝の展望所まで行ってみた。
4月、好天が続いていたときの蝙蝠の滝。
そして、雨が続いた後の蝙蝠の滝。驚いた。
動画でご覧いただこう。
大野川河口から約55キロメートル上流。
幅が120メートル、高さが約10メートル。
昔は、滝の上流にダムもなく、水力発電所に水を取られることもなかったから、
豊かな水量であったことだろう。
私の弟がくれた文献に、蝙蝠の滝は
「滝が水しぶきをとばして流れ、大きな音をたてている。滝の白い流れが虹を作っている。」
と書かれていたが、まさにこれかと思ったことだった。
この滝を越えて舟が通った。
なぜこんなところを?どうやって?
以前、大分から犬飼を経て竹田に入るときの旧道について書いた。
険しい山道で、物流はどうなってたんだと疑問に思った。
大野川沿いの川港犬飼から河口の大分三佐までは舟が行き来していた。
じゃあ、竹田と犬飼の間は?
山間部に位置する岡藩、物流は山を越え、谷を渡る難路を、
徒歩、人肩と牛馬の背に頼るしかなかった。
車というわけにはいかないのだ。荷馬車が通れるような道ではない。
崩れやすいところは石垣を積んだり石畳にしたり。それでも道は崩れる。
この数ヶ月、いろんな旧道を歩き回ったおかげで、
岡藩の人々の苦労が身にしみてわかってきている。
岡藩の殿様は考えた。
参勤交代や物資の往来について、
竹田から大野川全域を利用する川舟交通路はできないものかと。
竹田の町、岡城の北側を流れる稲葉川は、大野川の本流と合流し、東に流れる。
下の写真が稲葉川。(最近はこの辺りをうろうろしている。)
今回使っているのは、10年前にセスナに乗ったときに撮った写真。
今頃役立つなんて!
大野川は、別府湾まで滔滔と流れている。この川を利用しない手はないではないか。
これは殿様だけでなく、岡藩領民の願いであったようだ。
舟で岡藩からの荷が運べたら、どんなに楽だろう。
ところが領地の関係でうまくいかないんだなあ。
大野川を犬飼まで下るとき、一部だけお隣の臼杵藩領が入り込んでいる。
片側だけでも岡藩領なら問題ない。
ところがわずかな距離(2.9㎞)だけ、両岸とも臼杵藩という場所があるのだ。
だから、その間は、臼杵藩の許可がなくては岡藩は舟を通すことができない。
まさにのど元に刺さった骨。
うまいこと その辺りの写真もあった!
岡藩も臼杵藩に交渉を繰り返したようだ。
しかし、再三の交渉にも受け付けてもらえない。
とうとう幕末まで、竹田から犬飼まですいっと舟で……という目的は叶えられなかった。
岡も臼杵も小藩、隣同士でいろんなお国事情が絡んでいたのだろう。
で、時代はあっという間に明治へ。
明治4年、廃藩置県。
岡藩も臼杵藩もなくなった!境界もない!今こそ、大野川を使って経済発展を!
という岡藩の人たちの江戸時代からの悲願が果たされるときがやってきたのだ。
早速明治5年には大野川流域の人たちから
「大野川通船」の要望が県へ提出されたというから、
本当に切望していたのだ。
ここでは書ききれないくらいの陳情や準備を経て、
第一段階の犬飼~沈堕の滝の舟路ができた。
第二段階は沈堕の滝からさらに上流の竹田まで。
沈堕の滝は、舟を乗り換えることとして、蝙蝠の滝の落差をどうクリアする?
ここに「滝を迂回して森の中に舟道を作る」という大事業が計画されたのだ。
今も残る舟道を黄色い線で示してみた。
ああっ、空の旅を楽しんでいたら、紙面取り過ぎ。
舟道の様子は、また次で。
※この文章を書くにあたっては、
郷土史を研究していた祖父が書き残したものと弟がくれた資料が役に立ってます。
じいちゃん、弟よ、ありがとう。
4月、好天が続いていたときの蝙蝠の滝。
そして、雨が続いた後の蝙蝠の滝。驚いた。
動画でご覧いただこう。
大野川河口から約55キロメートル上流。
幅が120メートル、高さが約10メートル。
昔は、滝の上流にダムもなく、水力発電所に水を取られることもなかったから、
豊かな水量であったことだろう。
私の弟がくれた文献に、蝙蝠の滝は
「滝が水しぶきをとばして流れ、大きな音をたてている。滝の白い流れが虹を作っている。」
と書かれていたが、まさにこれかと思ったことだった。
この滝を越えて舟が通った。
なぜこんなところを?どうやって?
以前、大分から犬飼を経て竹田に入るときの旧道について書いた。
険しい山道で、物流はどうなってたんだと疑問に思った。
大野川沿いの川港犬飼から河口の大分三佐までは舟が行き来していた。
じゃあ、竹田と犬飼の間は?
山間部に位置する岡藩、物流は山を越え、谷を渡る難路を、
徒歩、人肩と牛馬の背に頼るしかなかった。
車というわけにはいかないのだ。荷馬車が通れるような道ではない。
崩れやすいところは石垣を積んだり石畳にしたり。それでも道は崩れる。
この数ヶ月、いろんな旧道を歩き回ったおかげで、
岡藩の人々の苦労が身にしみてわかってきている。
岡藩の殿様は考えた。
参勤交代や物資の往来について、
竹田から大野川全域を利用する川舟交通路はできないものかと。
竹田の町、岡城の北側を流れる稲葉川は、大野川の本流と合流し、東に流れる。
下の写真が稲葉川。(最近はこの辺りをうろうろしている。)
今回使っているのは、10年前にセスナに乗ったときに撮った写真。
今頃役立つなんて!
大野川は、別府湾まで滔滔と流れている。この川を利用しない手はないではないか。
これは殿様だけでなく、岡藩領民の願いであったようだ。
舟で岡藩からの荷が運べたら、どんなに楽だろう。
ところが領地の関係でうまくいかないんだなあ。
大野川を犬飼まで下るとき、一部だけお隣の臼杵藩領が入り込んでいる。
片側だけでも岡藩領なら問題ない。
ところがわずかな距離(2.9㎞)だけ、両岸とも臼杵藩という場所があるのだ。
だから、その間は、臼杵藩の許可がなくては岡藩は舟を通すことができない。
まさにのど元に刺さった骨。
うまいこと その辺りの写真もあった!
岡藩も臼杵藩に交渉を繰り返したようだ。
しかし、再三の交渉にも受け付けてもらえない。
とうとう幕末まで、竹田から犬飼まですいっと舟で……という目的は叶えられなかった。
岡も臼杵も小藩、隣同士でいろんなお国事情が絡んでいたのだろう。
で、時代はあっという間に明治へ。
明治4年、廃藩置県。
岡藩も臼杵藩もなくなった!境界もない!今こそ、大野川を使って経済発展を!
という岡藩の人たちの江戸時代からの悲願が果たされるときがやってきたのだ。
早速明治5年には大野川流域の人たちから
「大野川通船」の要望が県へ提出されたというから、
本当に切望していたのだ。
ここでは書ききれないくらいの陳情や準備を経て、
第一段階の犬飼~沈堕の滝の舟路ができた。
第二段階は沈堕の滝からさらに上流の竹田まで。
沈堕の滝は、舟を乗り換えることとして、蝙蝠の滝の落差をどうクリアする?
ここに「滝を迂回して森の中に舟道を作る」という大事業が計画されたのだ。
今も残る舟道を黄色い線で示してみた。
ああっ、空の旅を楽しんでいたら、紙面取り過ぎ。
舟道の様子は、また次で。
※この文章を書くにあたっては、
郷土史を研究していた祖父が書き残したものと弟がくれた資料が役に立ってます。
じいちゃん、弟よ、ありがとう。
2020-07-14 20:56
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コメント(6)
この記事は郷土史研究家が書いたのかってくらい分かりやすい説明ですね。
先生だったから説明がうまいのは当たり前か(^_^;)
普段水がちょろちょろでも大雨降ったら暴力的な流れになるのを知っておかなければいけませんね。
by ケース家 (2020-07-14 22:25)
舟道はどうなっているのでしょうか?
時間を作って早くアップしてください。
by 疾風 (2020-07-14 23:30)
>ケース家様
お誉めの言葉をありがとうございます。
じいちゃんと弟のおかげです。
夫のお母ちゃんは、この近くで育ったので、
この近辺であった水難の話をよくします。
川は怖いです。ひとたび水が増えるとまさに暴力的です。
4月に行ったときは好天でしたが、
弟から「くれぐれも気を付けるように」と釘を刺されての探索でした。
by ちはやママ (2020-07-15 11:08)
>疾風様
今まで知ろうとしなかった地元の歴史を
ちょっと調べただけでも面白くて、
いろいろ書きたいのですが捨てることの方が多いです。
写真もです。
舟の道の写真はどれがわかりやすいか、今選んでいます。
夏場は無理ですが、秋になったら探索もやりやすいと思います。
是非見に来てください。ご案内しますよ。
by ちはやママ (2020-07-15 11:12)
増水のコウモリの瀧、凄いですね。
by 萬木寛次 (2020-07-15 12:22)
>萬木寛次様
すごいです。初めて見ました。
沈堕の滝や原尻の滝はそばまで行って見ることが多いのですが、
ここはかなりの山間部なので
こんな状態になるとは全く知りませんでした。
地元なのに知らないことが多いです。
知らなかったドラマに感動している最中です。
by ちはやママ (2020-07-15 15:43)