お母ちゃんの戦争体験記③記憶の確認 [忘れてはいけないこと]
昭和20年5月5日、熊本と大分の県境上空あたりで、
B29と紫電改が交戦し、二機とも墜落。
その様子を女学校へ行く道で、お母ちゃんは目撃していた。
8月6日、台風8号が過ぎ去った後、
お母ちゃんを連れて、B29と紫電改が墜落した現場に向かった。
最初にB29の墜落現場を訪れた。
ここには、地元の有志によって立てられた「殉空の碑」がある。
竹田市から久住高原へと続く県道の途中に案内板があり、
そこから2キロほど山道を走ると山間部に集落、
そこから、また1キロという、本当に山の中である。
車を停め、碑があるところまで200メートルほど歩かなくてはならない。
大丈夫かと心配したけれど、お母ちゃんは現場を見たいのだろう、しっかり歩いていく。
お母ちゃんの話から、田んぼか畑の中を想像していたが、
雑木林の山の中。
今も、墜落の後が残る。
地元の方の記憶に残った風景が、碑に刻まれている。
お母ちゃんも、初めて訪れて、「こんな所だったんだ。」何度も呟いている。
パラシュートで降下した乗員の最期を思うとやるせない。
乗員12名のうち、生き残って国に帰れたのは、ただ一人だった。
B29の残骸だろうか。
殉空の碑には、紫電改に乗っていた粕谷飛行兵曹(19歳)と
犠牲になった11名のアメリカ兵の名前が刻まれている。
女学校からの帰り道、ユリちゃんが目撃したアメリカ兵はどの人だったのだろう。
…………
次に、紫電改が落ちた場所を訪ねた。
方向としては、B29の墜落現場より阿蘇の方向になる。
谷を下り、山道を登り……ここもまた、深い山の中である。
場所はすぐにわかった。
立派な慰霊碑がある。
車を停めたとき、地元の方がいて、
「この碑の世話人はあの人だよ。」と言って、
離れたところにいた麦わら帽子の方を呼んでくださった。
偶然にも、この地での悲劇を伝える中心となって活動している方に出会えたのだ。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/533403/
麦わら帽子の方は小林さんだった。
お母ちゃんは、自分が見た記憶を一生懸命に語り、
小林さんは、一生懸命に聞いてくださった。
紫電改が墜落したのは、この谷間。
当時真っ先に駆けつけ、救護に当たったのは小林さんのお母さんだった。
「水をほしがって亡くなったらしい。」とお母ちゃんが言うと、
やわらかに否定し、
「身体はまだ温かかったが、すでに亡くなっていた。」と彼のお母さんの話を伝えた。
お母ちゃんは納得した。
小林さんから直接お話を聞けたことで、
いっそう事件が身近に感じられ、
小林さんたちが収集した飛行機の部品が語るものも大きく感じられた。
今年の夏も、テレビでは
あの戦争を体験した人たちが、戦争を知らない世代に多くのことを語りかけていた。
痛ましい思いを胸に、真摯に訴えていた。
「戦争はいけない。」
お母ちゃんも、話の合間合間に繰り返し繰り返し
「勝っても負けても戦争はいけない。」とつぶやいた。
身近な体験談から、今年の8月6日は、特別な日になった気がする。
若者の命や未来を簡単に奪うような国に成り下がってはならない。
B29と紫電改が交戦し、二機とも墜落。
その様子を女学校へ行く道で、お母ちゃんは目撃していた。
8月6日、台風8号が過ぎ去った後、
お母ちゃんを連れて、B29と紫電改が墜落した現場に向かった。
最初にB29の墜落現場を訪れた。
ここには、地元の有志によって立てられた「殉空の碑」がある。
竹田市から久住高原へと続く県道の途中に案内板があり、
そこから2キロほど山道を走ると山間部に集落、
そこから、また1キロという、本当に山の中である。
車を停め、碑があるところまで200メートルほど歩かなくてはならない。
大丈夫かと心配したけれど、お母ちゃんは現場を見たいのだろう、しっかり歩いていく。
お母ちゃんの話から、田んぼか畑の中を想像していたが、
雑木林の山の中。
今も、墜落の後が残る。
地元の方の記憶に残った風景が、碑に刻まれている。
お母ちゃんも、初めて訪れて、「こんな所だったんだ。」何度も呟いている。
パラシュートで降下した乗員の最期を思うとやるせない。
乗員12名のうち、生き残って国に帰れたのは、ただ一人だった。
B29の残骸だろうか。
殉空の碑には、紫電改に乗っていた粕谷飛行兵曹(19歳)と
犠牲になった11名のアメリカ兵の名前が刻まれている。
女学校からの帰り道、ユリちゃんが目撃したアメリカ兵はどの人だったのだろう。
…………
次に、紫電改が落ちた場所を訪ねた。
方向としては、B29の墜落現場より阿蘇の方向になる。
谷を下り、山道を登り……ここもまた、深い山の中である。
場所はすぐにわかった。
立派な慰霊碑がある。
車を停めたとき、地元の方がいて、
「この碑の世話人はあの人だよ。」と言って、
離れたところにいた麦わら帽子の方を呼んでくださった。
偶然にも、この地での悲劇を伝える中心となって活動している方に出会えたのだ。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/533403/
麦わら帽子の方は小林さんだった。
お母ちゃんは、自分が見た記憶を一生懸命に語り、
小林さんは、一生懸命に聞いてくださった。
紫電改が墜落したのは、この谷間。
当時真っ先に駆けつけ、救護に当たったのは小林さんのお母さんだった。
「水をほしがって亡くなったらしい。」とお母ちゃんが言うと、
やわらかに否定し、
「身体はまだ温かかったが、すでに亡くなっていた。」と彼のお母さんの話を伝えた。
お母ちゃんは納得した。
小林さんから直接お話を聞けたことで、
いっそう事件が身近に感じられ、
小林さんたちが収集した飛行機の部品が語るものも大きく感じられた。
今年の夏も、テレビでは
あの戦争を体験した人たちが、戦争を知らない世代に多くのことを語りかけていた。
痛ましい思いを胸に、真摯に訴えていた。
「戦争はいけない。」
お母ちゃんも、話の合間合間に繰り返し繰り返し
「勝っても負けても戦争はいけない。」とつぶやいた。
身近な体験談から、今年の8月6日は、特別な日になった気がする。
若者の命や未来を簡単に奪うような国に成り下がってはならない。
2019-08-12 21:14
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コメント(2)
いろいろご近所と揉めてますけど戦争で得るものは何もありませんね。
by ケース家 (2019-08-14 12:41)
>ケース家様
いろいろ心配なことが増えています。
お母ちゃんも心配して、怒っています。
声を聞いて欲しいですね!
by ちはやママ (2019-08-14 15:16)