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お母ちゃんの戦争体験記①「飛行場作り」 [忘れてはいけないこと]

夫の母は昭和6年生まれ、88歳である。
一緒に大分市へ行くことがよくあるが、
ある場所を通ると、決まって語り始めることがある。

「女学校の時にな、飛行場作りに行ってな……。」

山奥から大分市に向かうとき、「千歳」という場所を通る。
このブログでも記事にした、あの小高い「山」があるところである。


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ここに向かう道筋の記憶は母の脳裏に深く刻まれている。





山から見下ろした写真がある。


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この平らな台地に終戦の直前、飛行場が建設された。


近郷の人々や学徒が招集され、
大急ぎで約1500メートルに及ぶ飛行場を作ったというのだ。

夫の母は、学徒動員でこの飛行場作りにかり出された。
昭和20年の初夏のことである。


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先日、県立病院の受診で大分市に向かう際にも
「歌いながら橋を渡って飛行場作りに行った。」と語り始めた。
何度も何度も聞いた話ではあるが、
8月ではあるし、きちんと取材しておこうと、いろいろ質問しながら車を走らせた。

記憶の糸はずいぶんこんがらがって、
また、思いついたら違う話が始まるので
なかなか筋道がつかめなかったが、
概ねまとまったので、お母ちゃんの記録として残しておくことにする。


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夫の母は、「ユリちゃん、ユリちゃん」とみんなから可愛がられて育った。

小さい頃からユリちゃんはべっぴんでかしこかった。
昭和19年、ユリちゃんは竹田の高等女学校に進学する。
家から二里というけっこうな距離を歩いて通った。


しかし、ろくな教科書はなく、勉強もさせてもらえない。
あげくのはてに泊まり込みの学徒動員である。
上級生は軍事工場に行かされていた。
(昭和20年の3月に、高等女学校は昭和20年度の授業が停止され、
5月には戦時教育令が公布され、無期限の授業停止という状況になっていたという。)



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ユリちゃんは、飛行場の建設現場から5キロぐらいのところにある小学校に
たくさんの同級生と泊まり込んでいた(人数は覚えていない)。

朝、地域の人が炊き出してくれた麦ご飯と味噌汁を食べ、弁当をもらって出発する。
弁当は竹を縦に割ったもので、風呂敷につつみ、それを背中にしょったそうだ。



道中、タナベ先生が「オイチニのクスリのコウノウは……」と歌って、
みんなで唱和しながら行進したと言う。


ネットで調べたところ、「オイチニの薬売り」ではないかと思われ、
黒沢明監督の映画「まあだだよ」で確認できた。


夫が母に聴かせて確認したら、「これだ、これだ。」と喜んだ。
「タナベ先生が歌いよる?」と聞いたところがかわいらしい。
(この後、記憶が急に活性化して、細かなところまで思い出して話してくれた。)


  ♪オイチニの薬は日本一(オイチ、ニ!)
  ♪オイチニの薬を買いなさい(オイチ、ニ! オイチ、ニ!)
  ♪そのまた薬の効能は(オイチ、ニ!) ……


先生が歌うと女生徒たちが、(オイチ、ニ!)と囃して、5キロの道のりを歩くのだ。
足はわら草履。道は埃っぽかったそうだ。



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仕事の内容は、土運びだった。
筵で作った担架のようなものに、兵隊さんが土を乗せ、女生徒二人で運ぶ。


上空から見つからないようにクヌギを植えながら作業を進めたと母は記憶をたどるが、
そんな作業に意味があるのかと、母に問うてもしかたない。

ときどき敵機が来て、空襲警報が鳴った。
銃撃されることはなかったが、
木の陰に隠れて怖い思いをした。


夕食後、友達と一緒に
それぞれの家族が持たせてくれた「煎った豆」などを食べていたという。
トイレが暗くて怖くて、行くときは何人かで連れ立って行ったそうだ。


ある夜、トイレに行った友達が、
「まかないのおばさんがユリちゃんを呼んでいる。」と言う。
女学生に炊き出しをしていた地区は、ユリちゃんの父親の里のあるところで、
彼女をよく知っている人がいたのだろう。
ユリちゃんが台所に行くと、
「これを食べよ。」
それは、たくさんのお焦げのおにぎりであった。
友達と分け合って食べたそうだ。



約二週間の動員であったようだが、
作業のきつさとか苦しさとかより、
お焦げのおにぎりをもらって食べたという記憶の方が懐かしい様子。
それが、ユリちゃんの明るさである。


しかし、勉強の機会を奪われたお母ちゃんのうらみは大きい。



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飛行場作りの話は、
この地域の母の年代の人ならよく知っている話で、
私は別の方々からも体験談を聞いたことがある。


飛行場作りをしていたせいか、
田舎の小さな小さな村なのに7月末には空襲に見舞われ、
犠牲者も出ている。
(地元の「戦争体験記集」を読むと、痛ましい記憶に胸が痛む。)



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しかし、終戦直前 この飛行場には練習機が4機やってきただけで、
飛行機が飛び立つことはなく、
戦後、練習機とこの飛行場に関する詳細な情報はすっかり処分されてしまった。


多くの青春を奪ったにしては全く無意味な、本当に無意味な結末。




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