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小島のような城跡探索  竹田市「騎牟礼城跡」②  [お城(跡)歩き]

地域に愛されている古城、騎牟礼城にいます。


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この騎牟礼城は、天正年間の豊薩戦争や
明治十年の西南の役の戦場跡としても有名な場所なのでした。
「戦略上重要な陣地となった」
と看板に書かれてありましたが、詳細がわかりません。
私は、大友氏と島津氏の九州における覇権争いのことは、
「島津が豊後に攻めてきてあちこちで合戦があった。岡城は落ちなかった。」
くらいしか知りません。
西南戦争では、西郷軍が竹田でどのような動きをしたか(一度は記事にしたけれど)
記憶があいまい~。


「どちらが、どのように、騎牟礼城を使ったの~?」
「さて?」
「またまた調べないと~。調べ始めると記事が進まないんだよね~。」


……というわけで、ここ数日は「豊薩戦争」やら「西南戦争」とやらを
「竹田」を中心に資料を読んでおりました(T^T)
自粛の間にえらく「竹田」に詳しくなってしまった……


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で、騎牟礼城についてわかったことをざっと書きます。


豊薩戦争では、志賀親次(20歳)が岡城を守り抜いたことで有名ですが、
そのとき騎牟礼城がどのような働きをしていたのかは勉強中。
ただ、島津軍は豊後各地の山城を次々と落としていたのに、
「騎牟礼城の攻略に失敗した」とウィキの「豊薩合戦」の項にありましたから、
かなり堅牢な山城だったのでしょう。



西南戦争については、『佐伯治「竹田市における西南戦争戦跡」』を参考にしました。


明治10年3月末、熊本での失敗を立て直すべく西郷軍は体勢を整え、
宮崎方面から大分へと侵入します。
竹田の町へは5月13日から入り始め、要所要所を占拠していったようで、
この騎牟礼城も熊本方面からの重要な場所として、陣地を築いていたそうです。
しかし、兵力に勝る政府軍が各方面から一斉に攻撃を始めると、
竹田の各所で激しい戦闘が起こり、次々と西郷軍の陣は崩され、
5月29日の総攻撃で騎牟礼城などが陥落、
西郷軍は竹田の町に火を放って敗走するのです。



騎牟礼城へは、数日前に政府軍に落ちた中川神社から砲撃があったそうです。
騎牟礼城から見た中川神社。約1.2㎞の距離。


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13日、東側の公園部分を見た後、西側の杉林の中へ。
(写真では夫の向こう側にある道へ)

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豊薩戦争や西南の役の遺構が見られると、夫はずいずい林の中に入って行きます。
「え~、また藪の中に行くんだ~(T^T)」
でも、置いていかれるのも不安なのでついていくしかありません。
東側の明るい部分に比べると
暗い林の中はけっこう広く、鬱蒼とした森になっているのです。


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最近地籍調査をしたようです。
ただ、これが土塁の跡かな~、堀切かな~という程度で
はっきりと遺構はわかりません。


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藪の中を登ったり下ったり。
私はまた転んでしまい、もう帰ろうと思ったところで、
山の西の端の方に来て、木々の切れ間から久住山が見えました。
カメラのレンズのカバーがずれていました。あんな山中に落とさなくてよかった……。


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18日は、西に下りる道をたどり、騎牟礼城の下をぐるりと時計回りに回って
もとの場所に戻りました。


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遊んでますね。


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国道に出ました。
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城原井路です。
西南戦争の時政府軍はこの井路を伝って、騎牟礼城に突撃したと資料にありました。



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歴史にひっかかっちゃうと
さくさくと記事にならないのでありますよ。
これもボケ防止だと思って活字を読んでおりますが、
さくさく歩かないと、また太っちゃうかも。



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